川路高子
[Wikipedia|▼Menu]

川路 高子
ペンネーム松操
誕生佐登
文化元年(1804年
武蔵国江戸
死没明治17年(1884年10月12日
東京府日本橋区日本橋蛎殻町
墓地池之端大正寺
言語日本語
国籍 日本
活動期間幕末
ジャンル日記、紀行、和歌
代表作『川路高子日記』『上総日記』
配偶者川路聖謨
子供継子:川路彰常
親族義弟:井上清直、甥:大越成徳、孫:川路寛堂、曾孫:川路柳虹
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

川路 高子(かわじ たかこ、文化元年(1804年) - 明治17年(1884年10月12日)は江戸幕府外国奉行川路聖謨の継室。諸大名屋敷に宮仕した後、天保9年(1838年)勘定吟味役川路聖謨に嫁ぎ、奈良大坂へ赴任、戊辰戦争中聖謨に自決されつつ下総国平沢村へ疎開し、江戸へ帰り没した。
生涯
宮仕

文化元年(1804年)、江戸幕府大工頭大越孫兵衛喬久の次女として生まれた[1]。15歳で紀伊徳川家屋敷に奉公し[1]徳川治紀娘で鳥取藩池田治道正室丞姫に8年間仕え、姫の死去により退職した[2]

天保4年(1833年)徳川家斉二十五女末姫広島藩浅野斉粛に嫁いだ際、再び出仕した[1]
川路家での生活

天保9年(1838年)4月29日、勘定吟味役川路聖謨に4人目の妻として嫁ぎ、聖謨の養父母、実母および先妻の2男2女と同居した[3]弘化元年(1844年)聖謨が佐渡奉行に赴任した時は江戸で留守を守ったが、弘化3年(1846年)奈良奉行赴任時には次男市三郎、聖謨養父母と奈良に移った。

嘉永4年(1851年)6月10日聖謨は江戸に召還されたが、高子は奈良に残り、日記を書き送って近況を報告し合った[4]。7月2日聖謨から大坂町奉行赴任を聞き[5]、7月26日大坂東町奉行屋敷に移った[6]

江戸に戻り聖謨が勘定奉行となると、小石川に屋敷を賜った[7]。聖謨が勘定奉行、外国奉行へと異例の出世を遂げる中、家事一切を引き受け、諸大名からの贈答品の応対を切り盛りした[8]。また、この頃前田夏蔭に和歌を学んでいる[9]

安政6年(1859年)8月、聖謨が政争に敗れて蟄居を命じられ、小石川屋敷を引き払い、3分の1ほどの広さの番町屋敷に移った[7]
上総への疎開

慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発し、新政府軍が江戸に向け進軍する中、継子種倫の養子先原田市三郎の知行地上総国山辺郡平沢村(千葉県大網白里市小中)に家族を避難させた[10]。3月15日、聖謨が自決を果たすと、大正寺で葬儀を取り仕切った後、初七日の21日に剃髪し[11]、夫、幕府に対し末永く操を守る意を込めて松操と号した[12]

22日夜、小網町より舟で下総国浜村に逃れ、上総国平沢村の名主利右衛門宅に身を寄せた[13]
晩年大正寺の聖謨・さと子墓

慶応4年(1868年)6月7日、江戸の情勢の安定を見計らい、番町の本邸に帰った[8]。嫡子川路寛堂平民となり番町の屋敷を引き払うと、高子は郊外の根岸に閑居したが、不便なため蛎殻町に移り、ここに落ち着いた[7]

明治17年(1884年)10月12日、胃癌のため死去し[14]池之端大正寺聖謨墓の隣に葬られた[15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:33 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef