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凡例川路 聖謨
時代江戸時代末期(幕末)
生誕享和元年4月25日(1801年6月6日)
死没慶応4年3月15日(1868年4月7日)(66歳没)
改名弥吉、萬福、聖謨
戒名誠格院殿嘉訓明弼大居士
墓所東京都台東区大正寺
官位従五位下左衛門少尉、贈従四位[1]
幕府江戸幕府勘定組頭格寺社奉行吟味物調役
→勘定吟味役→佐渡奉行→小普請奉行
→普請奉行→奈良奉行→大坂東町奉行
→勘定奉行→西丸留守居→外国奉行
主君徳川家斉→家慶→家定→家茂
氏族内藤氏→川路氏
川路 聖謨(かわじ としあきら)は、日本の武士(旗本)。号は敬斎。
豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大坂町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。
生涯の長男として生まれた。幼名は弥吉。母は、日田代官所手付の高橋誠種の娘。弟に井上清直、母方の従弟に江戸幕府最後の西国郡代である窪田鎮勝がいる。根津勢吉、永峰弥吉もいとこにあたる[2]。
文化5年(1808年)、父・吉兵衛は江戸に出て御家人株を入手し、幕府徒歩組に編入された。文化9年(1812年)、弥吉は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となる。翌年元服して、弥吉から萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第。文政元年(1818年)に勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏に採用され、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となる。その後、寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所に出向。この時仙石騒動を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格した。その後、佐渡奉行を経て、老中・水野忠邦時代の小普請奉行、普請奉行として改革に参与した(このころ、名を萬福から聖謨に改む)。
また、勘定吟味役の職務の関係で西洋諸国の動向に関心を持つようになり、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。なお江川英龍や渡辺崋山らと共に尚歯会に参加し、天保10年(1839年)の蛮社の獄にあやうく連座しかけたという通説があるが、川路や江川は尚歯会に参加しておらず、また蛮社の獄は尚歯会を標的としたものではないため、川路が蛮社の獄に連座する可能性はなかったとする説もある[3]。
水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷されている[4]。嘉永2年(1849年)『神武御陵考』を著した。執筆動機は、ミサンザイ、丸山、塚山の三説が鼎立するなか、本居宣長が『古事記伝』においてスイセン塚古墳を神武陵としたことへの批判だと述べている[5]。また、民政にも尽くした。乱伐によりはげ山になっていた多聞山城跡に約50万本を植樹し、佐保川には今日「川路桜」と呼ばれる桜の樹を植えた。博打を厳しく取り締まるとともに貧民救済に取り組んだ。このため「五泣百笑(博徒や悪徳僧侶・役人・商人、裁判の短期化で泊まり客が減った公事宿の五つが泣き、百姓が笑う)の奉行」と慕われた。奈良奉行時代の日記『寧府紀事』が宮内庁図書寮文庫に残る[6]。
その後、大坂東町奉行を経て、嘉永5年(1852年)、公事方勘定奉行に就任。家禄が200俵(200石相当)から500石の知行取に加増された(当時幕府の内規により遠国奉行就任で200俵、江戸町奉行・勘定奉行就任で500石へ加増)。翌嘉永6年(1853年)、阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、黒船来航に際し開国を唱える。また同年、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉を大目付格槍奉行の筒井政憲、勘定吟味役・村垣範正、下田奉行・伊沢政義、儒者・古賀謹一郎と共に担当し、安政元年(1854年)に下田で日露和親条約に調印。その際ロシア側は川路の人柄に大変魅せられたという(下記「人物・逸話」参照)。
安政5年(1858年)には堀田正睦に同行して上洛、朝廷に日米修好通商条約の承認を得ようとするが失敗、江戸へ戻った(条約は弟の井上清直と岩瀬忠震が朝廷の承認が無いままタウンゼント・ハリスと調印)。井伊直弼が大老に就任すると一橋派の排除に伴い西丸留守居役に左遷され、更に翌年の8月27日にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。