川越街道
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川越街道(かわごえかいどう)とは江戸時代から(一部)続く街道である。江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1つ板橋宿の平尾追分で分岐して川越城下に至る。伊能忠敬大日本沿海輿地全図」では実測、10里34町33間半(約43km)だった[1]

但し、後の1941年(昭和16年)に当街道を拡幅したり、商店街などで拡幅が難しい区間はほぼ平行して川越街道新道(国道254号)を建設し、現在ではこの新道のうち東京都豊島区の池袋六ツ又交差点から埼玉県川越市新宿(あらじゅく)町(北)交差点までの通称となっている[2][3][1]

新道(国道254号)との並行区間にある元の川越街道は「旧川越街道(都内区間の名称)」や「埼玉県道109号新座和光線(旧川越街道=埼玉区間の公式通称)」と称する。区間により新旧川越街道が重複、分岐を繰り返している。

一般に川越街道という場合、新道を指すことが多く、宿場が置かれた歴史街道とは経路が異なる。

このページでは歴史街道としての川越街道と、国道254号の川越街道部分の両方を記す。
元の川越街道

現在は旧川越街道と呼ばれる部分を含む、歴史街道としての川越街道。
起点・終点 (歴史街道)

起点:江戸・日本橋(中山道との分岐は板橋宿平尾追分
[4]

終点:川越・江戸町・西大手門(現在の大手町・川越市役所付近)[1]

平尾追分は現在板橋三丁目交差点となっており、同交差点付近は国道17号が当街道の道筋を踏襲しているが、通称は「中山道」となっている(同国道は日本橋から群馬県高崎市にかけて、中山道の道筋を踏襲、または同街道の道筋と並行している)。また、中山道の道筋を踏襲している道路の通称は「旧中山道」となっている[4]
歴史
概要

江戸城と川越城を繋ぐ古道
室町時代長禄元年(1457年)、上杉持朝の家臣・太田道灌江戸城(千代田城)と川越城(河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。古河公方に対する扇谷上杉家の防衛線であった。後に豊島泰経が道灌に対抗するために練馬城を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『太田道灌状』)。

戦国時代を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って寛永16年(1639年)に川越藩主になった松平信綱と嫡男の松平輝綱が、中山道の脇往還としてさらに整備したのが川越街道である。当時は「川越道中」[注釈 1]「川越児玉往還」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからである[6][注釈 2]。この頃の川越街道は、板橋宿・平尾追分より中山道を分かれ、川越城西大手門に至る道であった(ほぼ現在の旧川越街道、埼玉県道109号新座和光線)。

江戸時代 宿設置
街道には、上板橋[注釈 1]、下練馬[注釈 3]、白子[注釈 4]膝折[注釈 5]、大和田、大井[注釈 6]の6ヵ宿が設置され、各宿には伝馬役が置かれた。各宿場には、川越城のある川越から見て「上宿」「中宿」「下宿」が置かれ、それぞれに本陣脇本陣があった。宿場の出入口には木戸が設けられ警備が行われた。川越からはさらに児玉街道となり上野国藤岡に通じて中山道に合流しており、この2つの道を合わせて川越児玉往還と指定された。

賑わいと重要交易路、参勤交代路
中山道より行程距離がかなり短かったため多くの通行者があり五街道に準じる往還に指定された街道であった。中山道は河川の氾濫で通行止めになることが多く、川越街道は常に賑わっていた。通行量が増え過ぎて悲鳴を上げる沿道の村々の記録が各地に残っている。

物資の輸送を行う新河岸川舟運と合わせ川越の重要交易路であった。川越藩主の参勤交代の道でもあったが、距離が短く大名の宿泊は稀で宿駅では休憩と人馬継ぎ立てのみが行われた。川越藩以外にも参勤交代で中山道に代わって川越街道を選択する藩は少なくなく、時代と共に増えていった。

川越の焼き芋
寛政年間(1789年から1801年)に江戸で焼き芋が流行すると、文化年間(1804年から1818年)に川越産の芋を使った焼き芋屋の宣伝文句として、「栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)」という言い回しが生まれた(実際の江戸と川越の距離は11里未満だったが語呂合わせで13里とされたわけである)。

乗合馬車と今に残る並木道、馬頭観音
1880年(明治13年)から川越街道にも一日二回の乗合馬車(白子馬車という)が通るようになったが乗る人はそう多くなかったという[11]

新座市の北の入間郡三芳町ふじみ野市近辺では、現在も街道筋の「竹間沢の欅並木」「藤久保の松並木」などが残り、当時の風情を伝えている。またこのために拡幅を避けて富士見川越バイパスが建設された。またふじみ野市亀久保など一里塚跡が残っている箇所も少なくない。道標として馬頭観音もあちこちに残っている[注釈 7]

朝霞市「膝折(ひざおり)」はかつて村だったがこの地名の由来には、小栗助重の馬がこの付近で足を骨折したため、という伝説がある[12][9]。また別に、江戸から徒歩で川越まで歩く行程でくたびれ、膝が痛くなり、さらに歩き鶴ヶ島市「脚折(すねおり)」では脚が折れるほどくたびれたことから、それぞれ膝折と脚折と呼ばれたともいわれ、この二か所は対(つい)となっている。

徒歩から自動車道へ、新道の建設
1914年大正3年)、川越街道に沿って池袋駅から田面沢駅を結ぶ東上鉄道(現在の東武鉄道東上本線)が開通し、鉄道時代の幕開けとなった。

昭和初期になると、交通手段は徒歩から自動車となった。川越街道も東京都内において道路拡張工事がなされたり、商店街が発達するなどして用地買収が難しい区間は近くに並行して新道を建設し、現在の川越街道の形になった。並行区間では元の川越街道は「旧川越街道」と呼ばれ、部分的に新道(国道254号)と重なる。関越自動車道が開通するまでは交通情報の渋滞名所として名高かった上板橋の「五本けやき」は、昭和初期の川越街道の拡幅工事の際に上板橋村村長であった飯島弥十郎が屋敷庭の木を残すことを条件に土地を提供したもので、現在も道路の中央に5本のけやきが残っている。
宿駅の一覧

大井宿から川越宿の間に藤馬中宿もあった(現在の川越市藤間)[注釈 8]
板橋宿(東京都板橋区):現在の平尾交番付近。


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