川越市の歴史(かわごえしのれきし)は、埼玉県川越市の市域における歴史である。川越のシンボル、時の鐘 川越市は武蔵野台地の東北端に位置し、西北部から東部にかけて入間川が市域を流れる。当時は縄文海進によって川越市域まで古入間湾が広がり、仙波台地や新河岸台地には貝塚などの遺跡が密集する奈良?平安時代には入間川左岸を中心に開け、名細地区の条里制遺跡などが残る。平安末期から鎌倉にかけては河越氏や仙波氏などの武士層が登場し、その中でも河越重頼は鎌倉幕府の有力御家人となった[1] 室町時代に入ると山内上杉持朝が太田道真・道灌親子に命じて河越城を築城させる。この頃より現在の川越市街周辺に中心地が移った。上杉氏が1546年の河越夜戦で勢力を失うと、今度は後北条氏による統治が始まる。この時、城将大道寺政繁によって兵農分離が行われ、家臣団が川越に集中、川越の城下町が形成された[1]。 後北条氏が小田原攻めで滅亡すると、1590年の徳川家康の関東入府によって川越藩が成立する。川越藩は江戸北辺を守る主城として重視され、江戸時代を通して大老・老中の多くが配置されるなど重要な役割を果たした。また新河岸川の舟運の拠点や川越街道の出発点となるなど、江戸の物資供給源として栄えた。松平大和守家の松平斉典の代には17万石の大藩となり[1]、武蔵国で最大の藩となった。 明治維新を迎え、川越藩が廃藩となった後も川越は県下最大の商業都市として栄えた。1889年の町村制施行に伴い川越町となり、1922年には埼玉県で初めて市制を施行した。穀物の取引や箪笥の取引で栄え、1893年の明治大火では町の3分の1を焼失する[1]。その後の復興の過程で蔵造り建築が作られた。この時に川越商人の最盛期を迎えた[2]。 戦後は近隣9か村を編入。川越狭山工業団地を中心とした工業が形成され、工業都市としての形相を見せるほか、東京都へ40km圏内であることもあって東京のベッドタウンとしての色合いも濃くなった[1]。現代の川越の産業は農業・工業・商業ともに県内上位に入るバランスの取れた街であり、近年は観光産業も増えている[3]。 武蔵野台地に人が定着し始めたのは今から2万?3万年ほど前の話である[4]。ローム層からはナイフ形石器・刃器・尖頭器などが出土している[4]。縄文時代前期には気候の温暖化によって海進(縄文海進)が起こり、海面が数メートルほど上昇。荒川周辺に広がる沖積地にも海水が進入し、不老川や柳瀬川などの河口域には古入間湾と呼ばれる湾が広がった[4]。 古入間湾の沿岸では5500年前から貝塚が形成されはじめ[1]、代表的なものに小仙波貝塚 縄文も中期から後半になると、気候が寒冷化し自然環境も悪化していったため、西の甲信地方や東の南関東の海岸部へと移動したため[5]、集落も現在の川越市域にはほとんど見られなくなった[6]が、一部川沿いや台地に点在した。その中で、名細にある登戸遺跡には大量の栗を蓄えた貯蔵穴が残されている[7]。 やがて九州に伝わった弥生文化が関東圏にも伝わるようになると、入間川、小畔川、赤間川、新河岸川周辺に集落が形成されるようになる[4]。古墳時代までの間に約20か所の遺跡が存在し[8]、その中でも霞ヶ関遺跡・登戸遺跡・南山田遺跡が大きいものであった[7]。霞ヶ関遺跡には、族長が厚葬されたことを示す銅剣・指輪・銅鏃が副葬された方形周溝墓が築造されている[9]。三変稲荷神社古墳 古墳時代になると古墳が次々と形成されるようになる[9]。5世紀前半に造営された三変稲荷神社古墳を筆頭に、6世紀前半には仙波古墳群(大仙波古墳群・小仙波古墳群)、下小坂古墳群、南大塚古墳群が、7世紀には入間川流域最大の前方後円墳でもある的場古墳群の主墳の牛塚古墳が形成された[9]。牛塚古墳は埋葬物などから高句麗系渡来人のものであると推測されている[9]。 奈良?平安時代には、仙波に大集落が形成され、また入間川近辺の低湿地の開発も進められるようになった[9]。同時期、川越は「三芳野の里」と呼ばれ、伊勢物語にも川越が登場する[9]。みよし野の田の面の雁もひたぶるに君がかたにぞ寄ると鳴くなる この歌は三芳野神社にある「初雁の杉」を詠んだものだとされている[10]。 また、仙波の星野山無量寿寺中院は830年に建立され[11]、鎌倉時代には関東天台宗580余寺の本山として栄えた[12]。
概要
古代
中世河越館跡