川越児玉往還
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主要カテゴリ > 技術社会歴史 > 交通 > テーマ史技術史交通史 > 各国の交通史 > 日本の交通史 > 街道 > 川越街道 川越街道と彫られた石の標識(埼玉県新座市、2002年7月) 川越市。札の辻(2005年1月)

川越街道(かわごえかいどう)とは江戸時代の街道で、江戸日本橋より中山道を進み、江戸四宿の1つ板橋宿の平尾追分で分岐して川越城下に至る街道で伊能忠敬大日本沿海輿地全図」では実測、10里34町33間半(約43km)だった。当街道とほぼ平行して、または当街道を拡幅して、国道254号が建設され、現在では同国道のうち東京都豊島区の池袋六ツ又交差点から埼玉県川越市の新宿町(北)交差点までの通称となっている。[1][2][3]
目次

1 起点・終点

2 歴史

2.1 宿駅の一覧


3 現在

3.1 概要

3.2 接続する主な道路

3.3 交差する鉄道・河川

3.4 沿線の主な施設


4 川越・児玉往還

4.1 概要

4.2 行程

4.3 現在の平行道路


5 関連道路

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

起点・終点

起点:江戸・日本橋(中山道との分岐は板橋宿平尾追分
[4]

終点:川越・江戸町・西大手門(現在の大手町・川越市役所付近)[3]

平尾追分は現在板橋三丁目交差点となっており、同交差点付近は国道17号が当街道の道筋を踏襲しているが、通称は「中山道」となっている(同国道は日本橋から群馬県高崎市にかけて、中山道の道筋を踏襲、または同街道の道筋と並行している)。また、中山道の道筋を踏襲している道路の通称は「旧中山道」となっている。[4]
歴史

室町時代長禄元年(1457年)、上杉持朝の家臣・太田道灌江戸城(千代田城)と川越城(河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。古河公方に対する扇谷上杉家の防衛線であった。後に豊島泰経が道灌に対抗するために練馬城を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『太田道灌状』)。戦国時代を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って寛永16年(1639年)に川越藩主になった松平信綱と嫡男の松平輝綱が、中山道の脇往還としてさらに整備したのが川越街道である。当時は「川越道中」「川越往還」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからである[5]。この頃の川越街道は、板橋宿・平尾追分より中山道を分かれ、川越城西大手門に至る道であった(ほぼ現在の旧川越街道、埼玉県道109号新座和光線)。街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の6ヵ宿が設置され、各宿には伝馬役が置かれた。川越からはさらに児玉街道となり上野国藤岡に通じて中山道に合流しており、この2つの道を合わせて川越児玉往還とも言う。中山道より行程距離がかなり短かったため多くの通行者があり五街道に準じる街道であった。中山道は河川の氾濫で通行止めになることが多く、川越街道は常に賑わっていた。通行量が増え過ぎて悲鳴を上げる沿道の村々の記録が各地に残っている。物資の輸送を行う新河岸川舟運と合わせ川越の重要交易路であった。川越藩主の参勤交代の道でもあったが、距離が短く大名の宿泊は稀で宿駅では休憩と人馬継ぎ立てのみが行われた。川越藩以外にも参勤交代で中山道に代わって川越街道を選択する藩は少なくなく、時代と共に増えていった。

寛政年間に江戸で焼き芋が流行すると、文化年間に川越産の芋を使った焼き芋屋の宣伝コピーとして、「栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)」という言い回しが生まれた(実際の江戸と川越の距離は11里未満だったが語呂合わせで13里とされたわけである)。

新座市の北の入間郡三芳町ふじみ野市近辺では、現在も街道筋の「竹間沢の欅並木」「藤久保の松並木」などが残り、当時の風情を伝えている。またこのために拡幅を避けて富士見川越バイパスが建設された。またふじみ野市亀久保など一里塚跡が残っている箇所も少なくない。道標として馬頭観音もあちこちに残っている。
宿駅の一覧
板橋宿(東京都
板橋区):現在の平尾交番付近。

上板橋宿(東京都板橋区):豊敬稲荷神社に板橋区教育委員会の設置した板橋宿の碑がある。

下練馬宿(東京都練馬区):浅間神社に練馬区教育委員会の設置した下練馬宿の碑がある。

白子宿(埼玉県和光市):現在の白子郵便局付近。

膝折宿(埼玉県朝霞市):現在の膝折宿町内会館付近。

大和田宿(埼玉県新座市):鬼鹿毛の馬頭観音に新座市教育委員会の設置した大和田宿の碑がある。

大井宿(埼玉県ふじみ野市):現在の「大井中宿」バス停付近。

川越宿(埼玉県川越市):城下町であるが、川越の商人町である上五ヶ町の1つ「高澤町」(たかざわまち)から北の一帯に旅籠が多かった。

大井宿から川越宿の間に藤馬中宿もあった(現在の川越市藤間)。各宿場には、川越城のある川越から見て「上宿」「中宿」「下宿」が置かれ、それぞれに本陣脇本陣があった。宿場の出入口には木戸が設けられ警備が行われた。

朝霞市「膝折(ひざおり)」はかつて村だったがこの地名の由来は、ある武士の馬がこの付近で足を骨折したためといわれている[6]。また別に、江戸から徒歩で川越まで歩く行程でくたびれ、膝が痛くなり、さらに歩き鶴ヶ島市「脚折(すねおり)」では脚が折れるほどくたびれたことから、それぞれ膝折と脚折と呼ばれたとも言われ、この二か所は対(つい)となっている。

1914年大正3年)、川越街道に沿って池袋駅から田面沢駅を結ぶ東上鉄道(現在の東武鉄道東上本線)が開通し、鉄道時代の幕開けとなった。

昭和初期になると、交通手段は徒歩から自動車となり、川越街道も東京都内において道路拡張工事がなされ、現在の川越街道の形になった。旧川越街道は部分的に現在の国道254号と重なる。関越自動車道が開通するまでは交通情報の渋滞名所として名高かった上板橋の「五本けやき」は、昭和初期の川越街道の拡幅工事の際に上板橋村村長であった飯島弥十郎が屋敷庭の木を残すことを条件に土地を提供したもので、現在も道路の中央に5本のけやきが残っている。
現在
概要

起点:東京都豊島区
東池袋 池袋六ツ又交差点


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