伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2016年10月)
川西 實三
生誕 (1889-01-02) 1889年1月2日
兵庫県神戸市
死没 (1978-03-03) 1978年3月3日(89歳没)
墓地多磨霊園
出身校東京帝国大学
職業中央防災会議委員
配偶者田鶴子
子供瑞夫、薫、進、剛
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川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進[1]。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
略歴
1889年(明治22年)1月2日 - 川西種荘の二男として生まれる。兵庫県立神戸高等学校を卒業。
1914年(大正3年) - 東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。埼玉県地方課に勤める。
1918年(大正7年)4月6日 - 麹町区富士見町教会にて、三谷田鶴子と結婚。途中、静岡県駿東郡長、内務事務官を歴任。
1921年(大正10年) - 国際労働機関帝国事務所政府代表随員(スイスジュネーヴ駐在)となる。
1921年(大正10年)6月 - スイスローザンヌ着。
1921年(大正10年)11月 - スイスジュネーヴにて着任。
途中、内務省社会局労政課長、同職業課長を歴任。
1922年(大正11年)- 子の瑞夫(1943年夭折[2])が生まれる。
1925年(大正14年) - 第七回国際労働会議にジュネーブ帝国事務所事務官の肩書で顧問として参加[3]。
1927年(昭和2年) - 子の薫(後に学校法人女子学院理事)が生まれる。
1929年(昭和4年) - 子の剛(後に東芝副社長)が生まれる。
1931年(昭和6年) - 子の進(東京大学名誉教授、フェリス女学院大学名誉教授)が生まれる。
1932年(昭和7年) - 内務省社会局保険部長を務める。国民健康保険法を立案する。
1936年(昭和11年)4月22日 - 1938年(昭和13年)4月18日 - 埼玉県知事を務める。
1938年(昭和13年)4月18日 - 1940年(昭和15年)4月9日 - 長崎県知事を務める。
1940年(昭和15年)4月9日 - 1941年(昭和16年)1月7日 - 京都府知事を務める。
1941年(昭和16年)1月7日 - 1942年(昭和17年)1月9日 - 東京府知事を務める。
1946年(昭和21年) - 公職追放となる[4]。
1949年(昭和24年)11月 - 日本ILO協会会長となる。
1951年(昭和26年)8月 - 公職追放解除[5]。
1952年(昭和27年)6月19日 - 臨時医療保険審議会会長となる。
1956年(昭和31年)9月1日 - 社会保険審査会委員長となる。
1962年(昭和37年)7月7日 - 財団法人三島海雲記念財団の設立発起人となる。
1964年(昭和39年)11月3日 - 銀杯一組を賜る。
1965年(昭和40年)2月13日 - 1968年(昭和43年)2月13日 - 日本赤十字社社長を務める。
1965年(昭和40年)2月23日 - 1968年(昭和43年)4月9日 - 総理府中央防災会議委員を務める。
1969年(昭和44年)5月7日 - 勲一等瑞宝章を賜る。
著書
感銘録 社会保険新報社 1974.6
栄典
1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]
脚注[脚注の使い方]^ 斎藤兆史「受け継がれる教養教育」『教養学部報』2011年10月5日
^ 『みつばさのかげに』みすず書房、1965年8月30日。
^ 第七回総会の派遣代表を発表『大阪毎日新聞』大正14年3月26日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp190-191 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 『朝日新聞』1946年9月26日一面。
^ 『朝日新聞』1951年8月7日朝刊二面。
^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
東京都公文書館編『東京都職制沿革』東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、1986年
表
話
県令
野村盛秀
白根多助参事→権令→県令
吉田清英
知事
吉田清英
小松原英太郎
久保田貫一
銀林綱男
千家尊福
田村政