川端達夫
[Wikipedia|▼Menu]

日本政治家川端 達夫かわばた たつお
2012年6月6日東京都千代田区にて
生年月日 (1945-01-24) 1945年1月24日(74歳)
出生地 日本 滋賀県蒲生郡
出身校京都大学工学部卒業
京都大学大学院工学研究科修了
前職東レ従業員
所属政党(民社党→)
新進党→)
無所属→)
(新進党→)
新党友愛→)
民主党→)
民進党民社協会
称号工学修士(京都大学)
旭日大綬章
親族川端五兵衛(兄)
第66代 衆議院副議長
在任期間2014年12月24日 - 2017年9月28日
第15代 総務大臣
内閣府特命担当大臣
沖縄及び北方対策地域主権推進
内閣野田内閣
野田第1次改造内閣
野田第2次改造内閣
在任期間2011年9月2日 - 2012年10月1日
内閣府特命担当大臣
(科学技術政策)

内閣鳩山由紀夫内閣
菅内閣
在任期間2010年1月7日 - 2010年9月17日
第12-13代 文部科学大臣
内閣鳩山由紀夫内閣
菅内閣
在任期間2009年9月16日 - 2010年9月17日
衆議院議員
選挙区(滋賀県全県区→)
滋賀1区→)
比例近畿ブロック
当選回数10回
在任期間1986年7月7日 - 2012年11月16日
2014年5月15日 - 2017年9月28日
テンプレートを表示

川端 達夫(かわばた たつお、1945年(昭和20年)1月24日 - )は、日本の政治家。

衆議院議員(10期)、民主党国会対策委員長民主党幹事長(第6代)、文部科学大臣(第1213代)、内閣府特命担当大臣(科学技術政策)総務大臣第15代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)内閣府特命担当大臣(地域主権推進)民社協会理事長、衆議院副議長(第66代)などを歴任。
目次

1 来歴・人物

1.1 生い立ち

1.2 初当選から民主党結党まで

1.3 野党時代

1.4 鳩山・菅政権

1.5 野田政権

1.6 民主党の下野・落選と繰り上げ当選、衆議院副議長就任

1.7 政界引退


2 活動

3 政策

4 人物

5 その他

6 所属団体・議員連盟

7 脚注

8 関連項目

9 外部リンク

来歴・人物
生い立ち

滋賀県蒲生郡(現:近江八幡市)生まれ。生家は薬局を営んでいた。滋賀県立彦根東高等学校京都大学工学部卒業。京都大学大学院工学研究科修士課程修了後、東レに入社した。開発研究に携わる傍ら、労働組合運動にも取り組んだ[1]
初当選から民主党結党まで

1986年第38回衆議院議員総選挙民社党公認で滋賀県全県区から出馬し、初当選した。1994年の民社党解党に従い、新進党結党に参加。

1995年日本社会党を離党した元社会党委員長の山花貞夫や元社会党書記長の赤松広隆日本新党を離党し当時無所属海江田万里らによる、社会党や新党さきがけに代わるリベラル新党結成の動きに同調して新進党を離党するが、阪神大震災後の同年10月に新進党に復党。

1997年末の新進党解党に伴い、新党友愛に参加した。1998年旧民主党民政党・新党友愛が合流した民主党結党に参加。
野党時代

民主党では国会対策委員長や組織委員長を務める。2004年5月、岡田克也民主党代表に就任し、岡田新執行部では国会対策委員長に就任した。国会対策委員長時代、「質問主意書の増加によって官僚残業が増えている」と指摘し、自由民主党が質問主意書の提出制限を主張したことに対し、質問主意書の提出制限は日本国憲法で保障された国政調査権への冒涜であり、「国民の負託を受けて我々が要求することに(官僚が)徹夜してでもしっかりと対応するのは当然だ」と反発した。2004年9月、藤井裕久幹事長の代表代行就任に伴い、川端が民主党幹事長に昇格。

2005年第44回衆議院議員総選挙では自民党の上野賢一郎滋賀1区で敗れたが、重複立候補していた比例近畿ブロックで復活し7選した(川端が選挙区で落選したのはこの総選挙が初めて)。選挙敗北の責任を取り岡田代表が辞任を表明し、執行部も総辞職した。「ポスト岡田」を選出する民主党代表選挙では、前原誠司に投票。

前原執行部では、党常任幹事会議長に就任した。2006年2月、野田佳彦国会対策委員長の辞任後、国対委員長への就任を要請されるが、固辞した。国対委員長にはベテランの渡部恒三が就任し、渡部の下で国対委員長代理を兼任する。また、前年の総選挙で旧民社党系のベテランである米沢隆元委員長や中野寛成書記長らが落選したため、旧民社党系の政治団体である民社協会の理事長に就任。

前原代表の辞任に伴う民主党代表選挙では、川端グループ(民社協会の通称)を挙げて小沢一郎支持を表明した。小沢新代表の下、党常任幹事会議長に再任。

2009年民主党代表選挙では岡田克也への支持を表明し、推薦人に名を連ねる。同年8月の第45回衆議院議員総選挙では、前回敗れた自民党の上野賢一郎を破り、8選。
鳩山・菅政権

2009年9月、鳩山由紀夫内閣文部科学大臣に任命され、初入閣した。あわせて、国立国会図書館連絡調整委員会委員にも任命された[2]。翌17日の初登庁後の記者会見で、運転が長期停止中の高速増殖炉もんじゅ」(福井県敦賀市)について、引き続き研究開発を進める考えを示した。高校無償化法案については、文部科学省内や自治体からの要望を受け入れ、当初の家庭への給付案を取りやめ、学校側への給付にすることを了承した。

鳩山内閣において進めていた平成21年度補正予算の見直し作業においては、国対委員長時代の「官僚は徹夜して当然」という主張を曲げることなく、文部科学省の官僚に連休を返上させて作業に当たらせた[3]

2009年12月25日、高校の新学習指導要領解説書で竹島領土問題として例示しなかったことについて、閣議後の記者会見で、「竹島はわが国固有の領土であり、正しく認識させることに何ら変更があるわけではない」と強調し、「より簡素化するという意味で、『中学を踏まえて』という表現に集約した」と説明した[4]

2010年1月7日副総理菅直人財務大臣就任(辞任した藤井裕久の後任)に伴い内閣府特命担当大臣科学技術政策)を離任したため、川端が文部科学大臣と兼務する形で後任となった[5]

鳩山内閣の退陣に伴い、2010年6月に発足した菅内閣では、文部科学大臣と内閣府特命担当大臣(科学技術政策)の2つのポストで再任された。同年9月、菅第1次改造内閣発足により退任した。文部科学大臣としての後任は同じ旧民社党系の高木義明、内閣府特命担当大臣(科学技術政策)としての後任は海江田万里が就いた。その後、衆議院議院運営委員長に就任。
野田政権 2012年6月6日、女王陛下御在位六十年祝賀パーティーにて日本駐箚英国特命全権大使デイヴィッド・ウォレン(英語版)(右)と

2011年9月に発足した野田内閣では、総務大臣内閣府特命担当大臣沖縄及び北方対策地域主権推進)に任命され、3つのポストを兼務することとなった[6]。さらに、国務大臣としての所管事項として「地域の活性化を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[6]を担当することとなった。

同年11月16日国賓として訪日中のブータン国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク夫妻を歓迎するために行われた宮中晩餐会を欠席した。翌17日の参議院総務委員会の自民党の片山さつきの質問に対して「極めて失礼なことをしたと深く反省している。二度とこういうことがないよう自覚を持って臨む」と陳謝した[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:118 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef