川端慎吾
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陸上競技選手の「川畑伸吾」とは別人です。

川端 慎吾東京ヤクルトスワローズ #5
2012年8月17日 明治神宮野球場
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府貝塚市
生年月日 (1987-10-16) 1987年10月16日(36歳)
身長
体重185 cm
86 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション内野手
プロ入り2005年 高校生ドラフト3巡目
初出場2006年10月9日
年俸3000万円(2024年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


和歌山市立和歌山商業高等学校

東京ヤクルトスワローズ (2006 - )

国際大会
代表チーム 日本
プレミア122015年
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

獲得メダル
日本
WBSCプレミア12
2015

川端 慎吾(かわばた しんご、1987年10月16日 - )は、大阪府貝塚市出身のプロ野球選手内野手)。右投左打。東京ヤクルトスワローズ所属。

実妹は女子野球選手・指導者の川端友紀[2]
経歴
プロ入り前

軟式野球で国体出場経験のある父親の影響で、小学校2年生から貝塚リトルで投手遊撃手として野球を始める[3]貝塚三中在学中は硬式クラブ「オール狭山ボーイズ」に所属し、投手兼遊撃手としてプレー[3]

和歌山市立和歌山商業高等学校(現・和歌山市立和歌山高等学校)進学後、本格的に遊撃手としてプレーを始める[3]2004年の夏の甲子園に出場し、2回戦で聖光学院に敗れる。川端は2試合で8打数3安打だった。

2005年の春のセンバツでは、2回戦で準優勝の神村学園と対戦し敗退。川端はエース野上亮磨から本塁打を打っている。夏の県大会は準決勝で敗退。その後第6回AAAアジア野球選手権大会の選抜メンバーに選出。打率.462でベストナインを受賞した。高校通算33本塁打。また、2学年下には益田直也がいた。

2005年高校生ドラフト会議3巡目で東京ヤクルトスワローズに指名され、契約金4500万円、年俸480万円(金額は推定)で入団した。
ヤクルト時代2012年5月1日、横浜スタジアム

2006年キャンプを一軍で迎える。開幕一軍は逃したが、二軍では高卒新人としては珍しい79試合に出場。10月9日の対中日ドラゴンズ戦で一軍初出場(2打数無安打)、10月10日の対広島東洋カープ戦の第2打席で公式戦初安打・マルチヒットと共に、プロ初打点を記録し、プロ2試合目で早くもお立ち台に上った。球団史上、ドラフト会議を経た高卒1年目の野手が一軍の試合に出場したのは、1987年に1試合出場した土橋勝征以来、約20年ぶりだった[注釈 1]

2007年は、一軍と二軍を行き来する中、8月22日の試合で左手の薬指骨折し、そのリハビリで残りのシーズンの出場はできず、10月中旬のフェニックス・リーグで実戦に復帰した。

2008年に初めて開幕を一軍で迎える。10月7日の中日戦では第1打席で小笠原孝からプロ初本塁打を記録した。

2009年も5月に一軍昇格。その後は主に左の代打として出場したものの、8月23日の練習中にまたも右肩痛を発症し、登録抹消。以降は一軍での出場はなかった。

2010年阪神タイガースから藤本敦士がFAで加入。遊撃手のポジションを鬼崎裕司、新人の荒木貴裕らと争う。開幕当初は藤本が固定される形で起用されたが、不調から二軍落ち。その後は鬼崎が守備力を生かして台頭したが、打撃に難があったため、7月頃から川端が遊撃手のレギュラーとして起用されるようになった。その後、シーズン終了まで遊撃手のポジションを守り続け、8番打者としてチームの後半戦の躍進にも貢献した。なお、守備力は鬼崎の方が買われていたため、試合終盤は守備固めとして鬼崎が遊撃手に入り、三塁手へ回される機会も多かった。この飛躍にはシーズン中盤に監督の高田繁の休養(事実上の引責辞任)により監督代行に就任した小川淳司の引き立てによるところも大きい。小川は入団当時の二軍監督で、初年度から二軍で積極的に起用された。

2011年、開幕戦で最有力ライバルだった川島慶三東野峻に死球を受けて骨折したことから、スタメン遊撃手に定着。シーズン中盤までは7番を任されると、6番・宮本慎也、8番・相川亮二と「恐怖の下位打線」を形成。クリーンナップが不振でも得点源として機能する。しかし、ジョシュ・ホワイトセル飯原誉士の絶不振や故障によりシーズン中盤からは3番打者として起用される。新打順も無難にこなし、9月末には2割9分台まで打率を上げた。その後不振に陥り、10月19日に左手首痛で登録を抹消された。病院での検査の結果、「左手のTFCC(三角線維軟骨複合体)損傷」で全治6週間と診断(9月14日の広島戦でスライディングした際に左手を地面に強打したのが原因とされる)され、シーズン2位で進出が決定していたクライマックスシリーズに出場できず[4]。同じく戦線離脱を余儀なくされた由規久古健太郎七條祐樹らとスタンド観戦する結果になった。シーズンとしては規定打席に初めて到達した。

2012年、開幕から主に3番、5番打者を務め、シーズン最終試合で打率3割に挑むも届かなかった。その後のCSでは無安打に終わり、シーズンを終えた。最終成績は打率.298、4本塁打、49打点と前年を超える成績を残した。また、本来の遊撃手だけではなく、宮本慎也の休養日には三塁手として40試合以上守った。さらにシーズン終盤からは一塁手畠山和洋の怪我により一塁を守る機会もあった。

2013年4月22日に左足首関節の手術を受け、実戦復帰まで2か月の見通しと発表した[5]。7月9日に復帰してからは、調整不足の影響からか中々状態が上がらなかったが、8月から徐々に調子を上げ最終的に70試合に出場、規定打席未到達ながら打率.311を記録、本塁打も規定打席の半分程の打席数で過去最高の5本塁打を打った。また9月には自身初となる月間MVPを獲得した。同年オフの11月には台湾で行われた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表に選出された[6]

2014年に三塁手などとして自己最多の142試合に出場し、山田哲人らとともに打線を牽引。3番での出場が多かったが、攻撃型打線を組む時は2番に起用される時もあった。打撃面では規定打席に到達して打率3割以上を達成したが、守備面では守備率.957で14失策を喫した[7]


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