川端康成
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川端 康成
(かわばた やすなり)
1938年、39歳頃の川端康成
鎌倉二階堂の自宅窓辺にて)
誕生1899年6月14日
日本大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)
育ちは大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・茨木市宿久庄1丁目11-25)
死没 (1972-04-16) 1972年4月16日(72歳没)
日本神奈川県逗子市小坪
逗子マリーナ
墓地鎌倉霊園(鎌倉市十二所
職業小説家文芸評論家
言語日本語
国籍 日本
教育文学士東京帝国大学・1924年)
最終学歴東京帝国大学国文学科卒業
活動期間1919年 - 1972年
ジャンル小説文芸評論
主題無垢生命への讃仰、抒情魔界
自他一如、万物一如、アニミズム
生との流転、幽玄心霊
日本の伝統、もののあはれ
文学活動新感覚派・新興芸術派
代表作『伊豆の踊子』(1926年)
浅草紅団』(1929年 - 1930年)
水晶幻想』(1931年)
抒情歌』(1932年)
禽獣』(1933年)
雪国』(1935年 - 1948年)
千羽鶴』(1949年 - 1952年)
山の音』(1949年 - 1954年)
眠れる美女』(1960年 - 1961年)
古都』(1961年 - 1962年)
主な受賞歴文芸懇話会賞(1937年)
菊池寛賞(1944年・1958年)
日本芸術院賞(1952年)
野間文芸賞(1954年)
ゲーテ・メダル(1959年)[注釈 1]
芸術文化勲章(1960年)
文化勲章(1961年)
毎日出版文化賞(1962年)
ノーベル文学賞(1968年)
正三位勲一等旭日大綬章(1972年、没時叙位叙勲)
デビュー作『ちよ』(1919年)
『招魂祭一景』(1921年)
十六歳の日記』(1925年、執筆1914年)
配偶者秀子
子供政子(養女)、香男里婿養子
親族三八郎(祖父)、カネ(祖母)
栄吉(父)、ゲン(母)
芳子(姉)、恒太郎(伯父)
あかり、明成(孫)
黒田秀太郎、秀孝(伯父、従兄)
田中ソノ、岩太郎(伯母、従兄)
秋岡タニ、義愛(叔母、従兄)
影響を受けたもの

武者小路実篤江馬修
谷崎潤一郎徳田秋声
堀越亨生、長田幹彦吉井勇
押川春浪野上彌生子
内藤千代子有本芳水
芥川龍之介志賀直哉
ストリンドベリ、アルチバーセフ
ドストエフスキージョイス
カミーユ・フラマリオン
オリバー・ロッジ一休宗純
源氏物語枕草子中世文学
汎神論松尾芭蕉西行法師

影響を与えたもの

藤沢桓夫北條民雄
岡本かの子中里恒子
梶井基次郎福永武彦
野上彰澤野久雄
石濱恒夫三島由紀夫
星新一筒井康隆
松本清張吉本ばなな
小川洋子石田衣良
大道珠貴田中慎弥
ガブリエル・ガルシア=マルケス

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ノーベル賞受賞者
受賞年:1968年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため

川端 康成(かわばた やすなり、1899年明治32年〉6月14日 - 1972年昭和47年〉4月16日)は、日本小説家文芸評論家日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。位階勲等正三位勲一等大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である[1][2]

代表作は、『伊豆の踊子』『浅草紅団』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など[3]

ノーベル文学賞をはじめ、多くの文学賞を受賞し、日本ペンクラブ国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した。なお、遺書はなかった[4][5]
概略・作風

大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、的、抒情的作品、浅草物、心霊神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った[6]

その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界幽玄、妖美な世界観を確立させ[6][7]、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も認識した上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に残る作品を描き、近代日本文学の代表者としての地位を築いた[1][2]。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観美意識を世界に紹介した[8]

初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている[9][10][11]

川端は新人発掘の名人と称されたことでも知られ[12][13][14]ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎武田麟太郎藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝豊田正子岡本かの子中里恒子三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる[12][13][14]。また、その鋭い審美眼で数々の茶器陶器仏像埴輪俳画日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い[15]

※以下、川端康成の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉で括っています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。
生涯
生い立ち――両親との死別川端康成生誕地(撮影2011年)

1899年明治32年)6月14日大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生[16][17][18](川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた[19][20][21])。7か月の早産だった[22][23]。4歳上には姉・芳子がいた[24]。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ケ崎町)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、を病んでおり虚弱であった[16][25]。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった[26]


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