この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年6月)
日本の政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}川田 小一郎(かわだ こいちろう)
生年月日 (1836-10-04) 1836年10月4日
(天保7年8月24日)
出生地 日本・土佐国土佐郡旭村
没年月日 (1896-11-07) 1896年11月7日(60歳没)
死没地 大日本帝国・京都府京都市上京区高瀬川二条苑
前職実業家
貴族院議員
選挙区勅選
在任期間1890年9月29日[1] - 1896年11月7日
第3代日本銀行総裁
在任期間1889年9月3日 - 1896年11月7日
元首明治天皇
テンプレートを表示
川田 小一郎(かわだ こいちろう、1836年10月4日(天保7年8月24日) - 1896年(明治29年)11月7日)は、日本の実業家、政治家。男爵。創業期の三菱の幹部であり、貴族院議員、第3代日本銀行総裁。 天保7年(1836年)8月24日 、土佐国土佐郡旭村(現在の高知県高知市)にて土佐藩の郷士・川田家に生まれた。正規の教育はまったく受けていないが[2]、その理財の才を認められ、藩の会計方に登用される。藩営土佐商会で勧業・鉱山・通商の事務を担当[2]。明治維新に際しては、難題であった伊予松山藩所有の別子銅山接収を平和裡に収拾している。 明治3年(1870年)、藩営の海運業社九十九商会の民営化に伴い、高級幹部(管事)として、石川七財と共に社主の岩崎弥太郎を補佐した。高島炭鉱など鉱山開発、共同運輸との海運業の覇権を巡る抗争など、常に先頭に立って三菱を率いた。1885年(明治18年)の弥太郎死後は、新たに三菱を率いた岩崎弥之助を助け、鉱山業、造船業など基幹産業への集中投資を推進するなど、今日に至る繁栄の礎を築いた。のち、岩崎久弥がアメリカ留学を終えて副社長職に就任するや、世代交代の必要性を唱えて経営の第一線から退く。 1889年(明治22年)9月3日、松方正義の推薦で第3代日本銀行総裁に就任。川田の日銀総裁としての権勢は絶大で、「日銀の法王」と呼ばれた。株主総会の日以外は出勤せず、行員を牛込の私邸に呼びつけ、当時大蔵大臣であった渡辺国武も私邸に呼びつけたといわれる。1890年(明治23年)の経済恐慌を乗り切るなど、日銀の中央銀行としての機能を確立し、日清戦争時には財政・金融の維持に尽力した。帝国議会成立に際しては貴族院勅選議員を兼任し、また1895年(明治28年)10月31日、長年にわたる政財界の発展に貢献した功により男爵に叙せられた。 日銀総裁在任中の1896年(明治29年)、京都別邸(高瀬川二条苑)にて急死した。享年61。墓所は豊島区駒込の染井霊園。
生涯
家族
長男・川田龍吉 - 横浜船渠社長
三男・川田豊吉 - 函館どつく社長。岳父に川田甕江。娘婿に菊池正士
長女・鈴 - 男爵芝小路豊俊
二女・静子 - 函館どつく社長・大塚巌の妻
三女・浦子 - 土屋義直(土屋挙直二男)の妻
栄典
1895年(明治28年)10月31日 - 男爵・勲三等旭日中綬章[3]
1896年(明治29年)
10月11日 - 正五位[4]
11月5日 - 正四位[5]
備考
「男爵いも」で知られる川田龍吉は長男にあたる。
高橋是清を登用したことでも知られる。当時、ペルーの銀山開発に失敗して失意の日々を送っていた高橋に着目し、早速日銀に登用している。
脚注^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
^ a b 小野寺香月『近代日本重工業における経営問題の相克と克服 ―組織内部の意思決定分析から―