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川田 利明
プロフィール
リングネーム川田 利明
"ハッスルK"川田 利明
"モンスターK"川田 利明
全日本の絶対王者
本名川田 利明
ニックネームデンジャラスK
身長183cm[1]
体重105kg
誕生日 (1963-12-08) 1963年12月8日(60歳)
出身地 日本
栃木県下都賀郡大平町(現:栃木市)
所属太田プロダクション
スポーツ歴レスリング
トレーナージャイアント馬場
佐藤昭雄
天龍源一郎
ジャンボ鶴田
デビュー1982年10月4日
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川田 利明(かわだ としあき、1963年12月8日 - )は、日本の元男性プロレスラー、実業家、調理師、タレント。栃木県下都賀郡大平町(現:栃木市)出身。タレントとしては太田プロダクションに所属している。血液型O型。2010年をもってプロレスラーとしては事実上引退状態となっている。
「名勝負製造機」とも称される試合巧者振りと、キック主体のレスリングスタイルが特徴であった。 中学時代からプロレスラーを志し、野球部・相撲部に所属していた。2004年に同じ太田プロダクション所属のスマイリーキクチ・有吉弘行と対談を行った際には、中学2年生の時点で身長は公表しているプロフィールと同じ183cmもあり、現在も当時と変わっていないと川田も発言している。中学校卒業後は新日本プロレスのテストに合格したが高校を卒業してからということになり入門は先送りにした[2]。レスリングの強豪である足利工業大学附属高等学校(現在の足利大学附属高等学校)に一般入試で合格して進学。入学後、レスリング部に所属し1981年の茨城インターハイ準優勝、滋賀秋季国体でも優勝した[3](階級はいずれも75kg級)。 高校のレスリング部の1年先輩に三沢光晴とスーパーライダーが在籍していた。 高校卒業後、先に全日本プロレスに入門していた三沢の誘いもあって1982年3月、川田は全日本プロレスに入門。1982年10月4日、千葉県大原町(現・いすみ市)消防署前グラウンド大会での冬木弘道戦でデビューを果たした。 冬木とのデビュー戦以来、川田も引き分けを挟んで205連敗を喫した。しかし、2代目タイガーマスクとなった三沢の士道館における練習に同行し、館長の添野義二から現在の戦いの軸となる蹴り技・飛び技を習得し、この時期の川田はコーナーからのムーンサルト・アタックや場外へのプランチャなどを積極的に使うようになった[4]。1985年に海外修行に出発し、テキサス州サンアントニオ地区ではサムソン冬木とのタッグチーム「ジャパニーズ・フォース」で活動、若手時代のショーン・マイケルズ&ポール・ダイヤモンドの「アメリカン・フォース」と抗争を展開した[5]。帰国後の1987年、天龍源一郎がジャンボ鶴田を超えるため掲げた「レボリューション」に参加。それ以後、同軍団内のサムソン冬木(冬木弘道)とのタッグ「フットルース」でアジアタッグ王座を長期間保持し、また天龍とのコンビでも活躍した。 1990年春、天龍や冬木がSWS旗揚げに伴って全日本を離脱(「川田も誘いを受けたが残留した」という当初の情報であったが2015年11月の「真夜中のハーリー&レイス・ポッドキャスト」で語った事は、この件は全く事前に知らされず勧誘もなく、もし仮に誘われていても全日に残っただろうと語った[出典無効]。また師である天龍も、「引き抜きなどしていない」「ほんとうに引き抜きをやっていたらイの一番に川田を引き抜いていただろう」[6]と述べている。)。大量離脱後の初の試合で2代目タイガーマスクとタッグを組み、以降は鶴田超えを果たすため、三沢らと超世代軍を結成。同時にタイツを後年履き続けることになる黒と黄色の物に新調。1991年7月には三沢とのコンビでゴディ&ウイリアムス組を下し世界タッグ王者に就いた。 1992年10月、川田は旗揚げ記念大会で三冠ヘビー級王座をかけて三沢と対戦。破れはしたが、直後に鶴田が病気で戦線を離脱したため、川田は三沢に次ぐNo.2の地位に就くことになる。鶴田の離脱もあって全日本は日本人選手対外国人選手の路線から日本人選手同士の対決路線へと移行、1993年春、川田は“三沢越え”を念頭に超世代軍タッグを解消、鶴田とのタッグで着々と力を付けていた田上明と聖鬼軍を結成。2000年の三沢らの大量退団まで続く四天王プロレス時代の幕開けとなる。田上とのタッグでは度々王座に就き、個人でも1994年・1997年にはチャンピオン・カーニバル優勝、三冠ヘビー級王者も5度(12代、18代、21代、28代、32代)獲得した。 1995年6月9日、日本武道館における世界タッグ選手権で三沢からシングル・タッグを通じて初のフォール勝ち。 1997年4月、川田はチャンピオン・カーニバル優勝決定戦(川田、三沢、小橋による巴戦)で、初めてシングルで三沢から勝利を収める。1998年5月1日の全日本初の東京ドーム大会において、三沢が持つ三冠ベルトの挑戦者、そしてメインイベンターに抜擢された川田は体重を絞り(当時は105kg)褐色ボディへと変貌を遂げて試合に臨み、三沢から純粋なシングルマッチおよび三冠タイトル戦での初勝利を飾った。試合後、川田は「プロレス人生で一番幸せです。今が!」と大会の最後を締めくくった。 しかし、1999年1月22日大阪府立体育会館の三沢との三冠戦で「垂直落下式パワーボム(別名三冠パワーボム)」まで繰り出し三沢を破ったものの、試合中の怪我によりベルト返上を余儀なくされた。
来歴
学生時代
若手時代
天龍たちの離脱、超世代軍入り、四天王プロレス時代にかけて
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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