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川淵三郎
2015年の文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真
名前
愛称キャプテン、槍の川淵
カタカナカワブチ サブロウ
ラテン文字KAWABUCHI Saburo
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1936-12-03) 1936年12月3日(87歳)
出身地大阪府高石市
身長172 cm(現役時代)[1]
体重72 kg(現役時代)[1]
選手情報
ポジションMF、FW
利き足右足
代表歴
1958-1965 日本26 (8)
監督歴
1970-1971
1972-1975
1980-1981古河電工(Asistant)
古河電工
日本代表
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
川淵 三郎(かわぶち さぶろう、1936年12月3日 - )は、日本の元サッカー選手、元日本代表監督。大阪府泉北郡高石町(現在の高石市)出身。2020年東京オリンピック選手村村長[2]。
Jリーグ初代チェアマンを経て、第10代日本サッカー協会 (JFA) 会長を務めた。早稲田大学第二商学部商学科卒業。
会長退任後は日本サッカー協会の名誉職を歴任しており、名誉会長を経て、2012年6月より最高顧問、2020年6月15日時点では相談役である。日本トップリーグ連携機構代表理事会長[3]。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会評議員会議長[4]。日本バスケットボール協会エグゼクティブアドバイザー[5]。ジャパンサイクルリーグ名誉顧問[6]。一般社団法人Mリーグ機構最高顧問[7]。元公立大学法人首都大学東京理事長。実業界では、古河グループの古河産業の取締役を務めた。
公式な愛称は「キャプテン」、渾名は「サブ」。家族は妻と2女の4人家族。
経歴
現役選手時代まで1964年撮影1936年12月3日 父・川淵眞一、母・淑子の三男として出生。1943年 大阪府高石町立高石国民学校(終戦に伴い高石小学校に改組)入学。1949年 大阪府高石町立高石中学校入学、野球部に所属。1952年 大阪府立三国丘高等学校入学、同年7月同校サッカー部に入部。1955年同校卒業1957年 2浪の後早稲田大学第二商学部商学科に進学。早稲田大学ア式蹴球部でプレー。関東大学リーグ優勝。
1958年 日本代表に初選出。関東大学リーグ優勝。
1959年 ローマ五輪アジア予選出場。
1960年 第7回チリW杯アジア予選出場。関東大学リーグ優勝。
1961年 3月、早稲田大学第二商学部商学科卒業後、古河電気工業入社。4月、横浜電線製作所勤務。同社サッカー部でプレー。
1962年 インドネシア・ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会に出場。12月、結婚。
1964年 日本代表として東京オリンピック出場、対アルゼンチン戦でゴールを挙げた。
引退後
1970年 現役引退(日本代表通算68試合、18得点)。古河電気工業サッカー部コーチ就任。
1972年 古河電気工業サッカー部監督就任(1975年退任)。
1976年 日本サッカーリーグ常任運営委員就任(1979年退任)。10月、伸銅事業部第1販売部課長。
1980年6月、LA五輪強化部長に就任。8月、系列会社「谷商株式会社」の常務取締役に出向。11月、日本代表監督代行就任。
1981年 日本代表監督退任。
1982年6月、古河電気工業・名古屋支店金属営業部長。
1984年4月、日本サッカー協会強化部長退任。
1988年6月、古河産業へ出向、取締役伸銅品部長。8月、JSL総務主事就任。10月、日本サッカー協会理事就任。
1989年6月2日、JFA・プロリーグ委員会委員長就任。
1990年8月、プロリーグ検討委員会委員長就任。
1991年3月、強化委員長、プロリーグ設立準備室長就任。11月、社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立、初代チェアマン就任。11月、30年勤続した古河電気工業退社。
1993年5月、Jリーグ開幕、国立競技場にて開幕宣言。
1994年5月、日本サッカー協会副会長就任。6月、W杯日本招致委員会実行副委員就任。10月、強化委員長退任。
1996年7月、2002年W杯開催準備委員会実行副委員長就任。
1997年12月、2002年FIFAW杯日本組織委員会理事就任。
2002年7月、Jリーグチェアマン退任。後、日本サッカー協会会長(キャプテン)に就任。
2008年6月、3期6年務めた日本サッカー協会会長を退任、名誉会長に就任。
2010年9月、日本サッカーミュージアム館長に就任。任期は2年。
2011年5月、日本将棋連盟非常勤理事に就任。