川本三郎
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川淵三郎」とは別人です。

川本 三郎
かわもと さぶろう
誕生 (1944-07-15) 1944年7月15日(79歳)
東京都渋谷区代々木山谷町
職業評論家翻訳家
国籍 日本
活動期間1977年 -
ジャンル映画評論
文芸評論
主な受賞歴1991年、サントリー学芸賞
1997年、読売文学賞・評論・伝記賞
2003年、毎日出版文化賞桑原武夫学芸賞
2012年、伊藤整文学賞評論部門
デビュー作『朝日のようにさわやかに』
配偶者川本恵子
親族富田浩太郎(義兄、次姉の夫)
西四辻公敬(母方の叔父)
冷泉為任(母方の伯父)
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川本 三郎(かわもと さぶろう、1944年7月15日 - )は、日本評論家翻訳家読売文学賞サントリー学芸賞(社会・風俗部門)選考委員。東京都渋谷区代々木山谷町(現:代々木4丁目)出身[1]

ファッション評論、ファッション史研究の川本恵子(1951年 - 2008年[2])は妻。俳優の富田浩太郎は次姉の夫[3]。母方の叔父に、滋賀プラスチック代表取締役の西四辻公敬がいる[4][5]。また、歌人の冷泉為任は川本の母方の伯父に当たる[4]。母方の祖父の西四辻公堯陸軍少将子爵貴族院議員[4]
来歴・人物

熊本県出身の内務官僚の第5子として生まれる[6]1945年5月25日空襲代々木の実家が焼失、同年8月、広島に単身赴任していた父が原爆投下で死去した。戦後は杉並区阿佐谷北で育つ。当時の家は小島烏水が建てた大きな洋館で、隣家にはロシア文学者中山省三郎が住み、その向かいには英文学者の田部重治がいた[7]麻布中学校・高等学校から1年間の浪人生活を経て東京大学に入学。1968年東京大学法学部政治学科を卒業後、同大学院に在籍[8]しつつ、一年間の就職浪人生活を送る。二度目の受験で朝日新聞社に入社し、出版局に配属された。

週刊朝日』編集部在職中、1971年2月、京浜安保共闘を自称する菊井良治(日本大学文理学部哲学科在学中)を取材[9]。菊井が宮沢賢治について語り、ギター片手にクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの「雨を見たかい」を歌う姿に接して、個人的なシンパシーを持つに至る[10]1971年5月、人事異動で『朝日ジャーナル』記者となった後も菊井と密接に交際し、1971年8月21日に菊井らが赤衛軍を名乗って朝霞自衛官殺害事件を起こした際も、この犯罪を事前に取材し、犯行後にも菊井に金を渡すなどの便宜を図る[11]。このとき川本は、赤衛軍のアジビラ作成を手伝った上、菊井から証拠品(自衛官が殺害された時に着用していた腕章と、犯行時に使用された隊員ズボン)を譲り受け、写真撮影の後、1971年9月上旬に同僚記者の妻にこれを託して焼却させた。1971年11月19日に菊井が逮捕されると川本の行為も露見、このため川本は1972年1月9日に証憑湮滅容疑で埼玉県草加警察署に逮捕され、会社は退社処分(懲戒解雇)となった。23日間の留置の後、1972年2月に保釈。同年9月27日、川本は浦和地裁にて懲役10か月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。この事件の経緯は自伝的な『マイ・バック・ページ-ある60年代の物語』に詳しい。

以後、人の紹介で小さな編集プロダクションに拾われ、仕事のかたわら映画評や文芸評論を書き始める[12]。物を書くことを川本に勧めたのは川本の大学時代の同級生の松本健一だった[12]1973年、『朝日ジャーナル』時代に取材を通じて知り合った21歳の武蔵野美術大学生・大塚恵子(のちのファッションジャーナリスト・川本恵子)と結婚し、三鷹市下連雀に住む[13]

1977年、『朝日のようにさわやかに』『同時代を生きる「気分」』の刊行を機に独立[14]。朝日新聞社を懲戒解雇された経緯からして、最初は良い仕事が来ず、マイナーな雑誌で「福島県小名浜温泉トルコ風呂潜入」などのルポを書いたほか、スウェーデンのポルノ小説を翻訳したこともある[15]。文芸・映画・都市など幅広いジャンルで多数の著書があるとともに、永井荷風に関する著作もある。映画に関する著作が最も多いが、「町歩き本」も多数刊行しており近年の「散歩ブーム」の火付け役の一人である。ほか米国文学の翻訳もあり、特にトルーマン・カポーティを好んで訳している。

1979年常盤新平青山南とともに編集委員として『ハッピーエンド通信』を刊行。

群像』1979年6月号に村上春樹の処女長編小説『風の歌を聴け』が掲載された直後、川本は『カイエ』1979年8月号において村上に対しいち早くインタビューを行う。最初期からの村上春樹の支持者だったが、ノンフィクション『アンダーグラウンド』(講談社、1997年3月)が刊行されたあたりから批判的になる[16]。2002年の『海辺のカフカ』の刊行時に同書を酷評する。

月刊誌『東京人』(1986年創刊)の編集委員であった。

妻とは朝日新聞在籍時代に取材に訪れた武蔵野美術大学で知り合い(妻は在学中だった)、懲戒解雇後に結婚した(妻は退学)[2]。妻は2006年に食道癌を発症、2年後に死去した[2]。看病中に川本はそれを題材にした短歌を詠むようになった[2]

2010年より、立教大学文学部特任教授( - 2012年)。

自らの1970年前後の体験を描いた『マイ・バック・ページ』が妻夫木聡松山ケンイチの主演で映画化され、2011年5月に公開された。
受賞歴

1991年 - 『大正幻影』によりサントリー学芸賞


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