川嶋 勝重基本情報
本名川嶋 勝重
通称ラスト・サムライ
ラッキー男
Luck king
階級スーパーフライ級
国籍 日本
誕生日 (1974-10-06) 1974年10月6日(49歳)
出身地千葉県市原市
スタイル右ファイター
プロボクシング戦績
総試合数39
勝ち32
KO勝ち21
敗け7
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川嶋 勝重(かわしま かつしげ、1974年10月6日 - )は、日本の元プロボクサー。千葉県市原市出身。元WBC世界スーパーフライ級王者。身長166.4cm、リーチ169cm。千葉県長南高等学校(現・茂原北陵高等学校)卒業。 高校時代は野球部に所属。卒業後、地元の企業に就職するが友人のボクシングの試合を観戦し、感動したのを機にプロボクサーになることを決意する。1995年、元WBC・WBA世界ストロー級(現:ミニマム級)王者の大橋秀行が会長を務める大橋ジムに入門。 トレーナーは松本好二(元OPBF東洋太平洋フェザー級王者。大橋会長とは横浜高校ならびにヨネクラジムの先輩・後輩の間柄)、妻はジムの練習生だった。 川嶋がトランクスに縫いつけられていた「S.T」のイニシャルは、日比谷線脱線事故で亡くなった川嶋のジムの後輩のものであった。事故以降、試合前には後輩の仏前で必勝を誓うことが恒例となっていた[1]。 ジムに入門するまでボクシング経験は全くなく、不器用であったためプロテストを志願するも大橋会長に2度却下された(プロテスト自体は一発合格)。練習生だった頃の川嶋は大橋会長曰く「光るもののない選手」であった。 5戦5敗の選手とのスパーリングで一方的に打たれ、過呼吸で倒れたことがあった。 1997年2月20日、プロデビュー。 1997年11月8日、東日本ジュニアバンタム級(現:スーパーフライ級)新人王獲得。同年12月20日の全日本新人王決定戦に出場するも、中野博に6回判定で敗れる(プロ初黒星)。 1999年4月28日、所属ジムの大橋秀行会長とも対戦経験のある元WBC世界ストロー級(現:ミニマム級)王者ナパ・キャットワンチャイ(タイ)とノンタイトル戦を戦い、5回終了TKO勝ち。 2000年12月11日、東洋太平洋バンタム級王者ジェス・マーカ(フィリピン)に挑戦したが、12回判定負けで王座獲得ならず。 2001年8月27日、元WBA世界スーパーフライ級王者ヨックタイ・シスオー(タイ)とのノンタイトル10回戦に判定勝ち。この勝利で世界ランク入りを果たした。 2002年4月20日、日本スーパーフライ級王者佐々木真吾に挑戦し10回判定勝ち。王座獲得に成功した(1度防衛後、王座返上)。 2003年6月23日、世界初挑戦。WBC世界スーパーフライ級王者徳山昌守に挑むが、12回判定負けを喫し王座獲得はならなかった。 2004年6月28日、徳山に再挑戦。初回に2度のダウンを奪い1分47秒TKO勝ち。徳山のV9を阻み、悲願の世界王座奪取を果たした。その後、2度の防衛に成功。 2005年7月18日、3度目の防衛戦で徳山と3度目の対戦を行う。最終・12回にダウンを奪った以外は見せ場らしい見せ場を作ることが出来ず、大差で川嶋の判定負け。前王者の雪辱を許す格好になった。 2006年9月18日、世界王座返り咲きを懸け、WBC世界スーパーフライ級暫定王座決定戦に出場しクリスチャン・ミハレス(メキシコ)と対戦。川嶋もフルラウンドの死闘を展開したが、僅差の判定で敗れ王座返り咲きならず。川嶋は試合後、現役引退を表明したが1か月後に撤回した。 2007年1月3日、川嶋はボクシング・グランプリ2007の大将戦(メインカード)で徳山の引退・王座返上で正規王者に昇格したミハレスと再戦したが、10回 コーナーに追い込まれ滅多打ちにされたところでTKO負け。川嶋の雪辱はならなかった[2][3]。 2008年1月14日、WBA世界スーパーフライ級王者のアレクサンデル・ムニョス(ベネズエラ)に挑戦。序盤は川嶋のペースで試合が進んだが中盤以降、ムニョスの手数が勝り始め、11回にはムニョスのストレートで腰を落としかける場面もあった。試合は判定に縺れ込んだが0-3で敗戦。川嶋の王座返り咲きはまたしてもならなかった。川嶋はこの試合を最後に正式に引退した[4]。 現在はテレビ東京系のBSジャパンでボクシング中継が行われるときに解説を務めるなどしている。川嶋の妻が経営するアクセサリー店で職人としての修業を始め、2009年6月上旬には恩師・大橋秀行に依頼されたボクシンググローブ型のネックレスを納品した[5]。
人物
来歴