川崎造船所
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川崎造船所(かわさきぞうせんじょ)は、兵庫県神戸市に設立された造船所、および造船所から発展した企業(株式会社川崎造船所)である。造船所は川崎造船神戸工場の前身であり、そこから発展した企業は川崎重工業株式会社(川崎重工)の前身にあたる。

この項目では、川崎重工(川崎造船所)の創業から1945年(終戦時)までの沿革を中心に記述する。
沿革
戦前
神戸での造船事情

川崎造船所が置かれた神戸1869年(明治2年)「兵庫製鉄所」(後の「官営兵庫造船所」)が設立されるなど近代造船業の盛んな土地であった。この造船所は、加賀藩士ら3人が閉鎖となった七尾造船所(加賀藩)の設備を譲り受け、兵庫川崎の浜(東出町)に設立した。また1869年(明治2年)に開設されたバルカン鉄工所が1872年(明治5年)に工部省に買収されて工部省製作寮兵庫製作所となった。兵庫製鉄所は同じ年に工部省に買収され、兵庫製作所と合併した。兵庫製作所は1873年(明治6年)に東川崎町に移転した。その後に名称を「兵庫工作分局」「兵庫造船局」と変更し、1885年(明治18年)「兵庫造船所」となっていた。
個人経営の時代

一方、近代造船所の必要を感じていた川崎正蔵は、1878年(明治11年)に東京築地に川崎築地造船所を、次いで1881年(明治14年)に神戸に川崎兵庫造船所を設立した。当時はまだ和船が重んじられて経営は苦しく、彼は官糖取り扱いで得た利益をつぎ込んだ。

明治政府1880年(明治13年)に官営工場を民間に払い下げる方針とし、官営兵庫造船所は1886年(明治19年)になり川崎に払い下げられた。設備・敷地共に川崎兵庫造船所より優れていたので、川崎兵庫造船所の機能はこちらに移設され、官営兵庫造船所は川崎造船所と改称された。東京にあった川崎築地造船所も敷地に工場拡張の余地が無く、また経営上からも2か所の造船所を維持するのは難しいために同所は閉鎖され、工場は神戸に集約された。

川崎造船所は現在の神戸工場の位置にあって船台3基、船架2基の設備を持ち、鉄船の建造能力があった。官営時代に受注し建造中の鉄船もそのまま引き継がれ経営を助けた。1894年(明治27年)に勃発した日清戦争によって新造、修繕の需要が増え、川崎造船所の事業は拡大した。
株式会社設立川崎造船所全景。1911年以前

今後の資金調達強化のため、1896年(明治29年)10月15日に株式会社川崎造船所が設立された。正蔵の息子3人は既に亡くなっており、養子の4男はまだ10歳だったので後継者として松方正義の3男松方幸次郎が初代社長となった。社長となった松方は積極的に設備投資をし、念願の乾ドック1902年(明治35年)に完成した。同年から新船台の建設にも着手し1905年(明治38年)に第一船台が完成。その後も新船台の建設を継続し、設備を拡張した。第4船台上のガントリークレーン1912年(明治45年)に竣工している。1937年(昭和12年)までに8つの船台を設置、うち第6船台は1941年(昭和16年)に撤去され、1945年(昭和20年)の終戦時で7台の船台があった。

また松方は海外からの技術導入も積極的に進め、実用化の始まった船舶用タービンでは1907年(明治40年)インターナショナル・カーチス・マリン・タービン社 (International Curtis Marine Turbine Co.) と特許についての契約を結び、カーチス式タービンの製造を始めた。また1911年(明治44年)にはイギリスジョン・ブラウン社 (John Brown Co.) と技術提携しブラウン・カーチス式タービンを製造した。更に同年、ドイツMAN社と特許契約を結びディーゼルエンジンを製造した。その他大正の初めまでに合わせて17件の海外特許と契約を結んだ。

個人経営の時代は、日本海軍向けには木造敷設艇6隻を建造しただけだった。株式会社設立以降、艦艇建造は本格化し、1899年(明治32年)の水雷艇建造から始まり駆逐艦などを建造した。潜水艦建造も早くから手がけ、1906年(明治39年)に日本初の国産潜水艦(第六潜水艇)を建造している。その後も艦艇建造に注力し、1945年(昭和20年)の敗戦で帝国海軍が消滅するまでに川崎造船所が完成させた艦艇は、戦艦3隻、航空母艦3隻、重巡洋艦5隻、軽巡洋艦3隻など多数に上る(→#日本海軍艦艇)。

ちなみに終戦までに戦艦空母を建造した国内の民間造船所は、ここと三菱重工業長崎造船所の2か所しかなかった(空母の船体のみの建造は他に2か所あった)。また潜水艦を建造した国内の民間造船所もここと三菱重工業神戸造船所太平洋戦争中に建造を手がけた三井造船玉野造船所の3か所だけだった。

また商船建造も順調に受注した。第一次世界大戦時には大福丸型貨物船をストックボートとして75隻も建造し、大きな利益を上げた。
経営危機

1904年(明治37年)からの日露戦争でも新造船、修繕の需要増に追われた。


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