川崎市の歴史(かわさきしのれきし)では、現在の神奈川県川崎市の市域での歴史を述べる。 川崎市は1971年(昭和46年)8月に、札幌市、福岡市とともに政令指定都市となった[1]。1971年の行政区画審議会を経て、川崎市は川崎区、幸区、高津区、中原区、多摩区の5区を設けた[2]。1982年には高津区南部の宮前地区を分けて宮前区が、多摩区西部の柿生、岡上地区を主として麻生区が分けられた[3]。 横浜市、横須賀市に次いで、神奈川県下三番目の都市として川崎市が誕生したのは1924年(大正13年)7月1日のことであった[4]。川崎町、大師町、御幸村の2町1村が合併したのが始まりで、その後合併を続けて現在の市域が確定したのは1939年(昭和14年)のことである[5]。市制以前は、現在の市域と横浜市の一部を合わせて橘樹郡と呼ばれていた[5]。1938年(昭和13年)10月1日に橘樹郡に最後まで残っていた稲田町、宮前村、生田村、向丘村が編入し、橘樹郡は消滅した[4]。1939年3月27日に、都筑郡柿生村と岡上村の川崎市への合併が承諾され、これをもって都筑郡も消えた[6]。 1623年(元和9年)に東海道の川崎宿が作られ多摩川の渡しの場として賑わい、明治時代末期の近代工業の誕生で、川崎は常に時代の先端を行く成長を遂げてきた[7]。農村部は江戸、東京向けの産品を出荷する近郊農村として発達し、港湾部は京浜工業地帯の一部として港湾施設も整備され、工業都市として発展した一方で、工業や交通の公害、乱開発などの社会問題に直面してきた。 万福寺桧山公園
総論
市成立前
原始
旧石器時代以前
麻生小学校の隣接地にある柿生M点からは、川崎市内では他に例を見ない貝やサメの歯、カニ、単体サンゴなどの多くの化石が発掘され、多摩丘陵の土台となっている上総層群の研究の発祥地となった[11]。柿生M点は、上総層群が一部露出している地域のひとつであり、海底にあった上総層群が隆起して多摩丘陵の原型が作られたのはおよそ50万年前とも言われている[12]。
多摩丘陵の原型ができてから現在までの間に、川崎市域は大きな海進が3度あったと認められている[13]。1度目の「おし沼海進」は約30万年前に起こり、当時の海岸線は、現在の多摩区菅と宮前区稗原を結ぶ線上付近にあった[13]。2度目の「下末吉海進」はおよそ15万年前から10万年前に発生し、溝口、野川、千年に地層が堆積された[14]。3度目は後述する「縄文海進」である。
川崎周辺で最も古い遺跡は稲城市坂浜の多摩ニュータウン471B遺跡で、6万年前と推定される先土器時代の石器が発見された[15]。東高根森林公園北側の下原遺跡からは、26000年前の打製石斧が発見され、これが川崎市域最古の考古資料となっている[16]。麻生区黒川の黒川東遺跡では24000年前の石刃、掻器などが発見された[17]。
縄文時代、久本などで発見されている[19]。他に南加瀬貝塚などがある。
麻生区の金程向原遺跡では、縄文時代中期の竪穴建物跡が約110棟発掘されている[20]。黒川宮添遺跡では94棟の竪穴建物跡のほか、平安時代から近世にかけての遺跡も発掘されている[21]。
縄文時代には多摩丘陵の原型ができて以降の前述の3度の大きな海進のうち最後の海進があった。これは「縄文海進」と呼ばれ6,300年前から6,000年前にかけてが最盛期で、この頃の海岸線は中原区宮内と高津区千年を結ぶ線上にあったと推定される[19]。 縄文海退後の弥生時代の遺跡としては東高根遺跡があり、3世紀頃から8世紀にかけての古代人集落跡が確認されている[22]。 発見された古墳時代の遺跡の中でとりわけ大きいのは、加瀬山で発見された加瀬白山古墳である[23]。全長87メートル、高さ10.5メートルの前方後円墳は4世紀の終わり頃に作られたものと推定され、その規模から南武蔵一帯を支配した強力な首長が被葬されたと考えられる[23]。1937年(昭和12年)に慶應義塾大学が行った発掘調査により、同古墳からは、古墳時代初期の三角縁神獣鏡などが発掘され[24]、古墳の裾に掘られた平安時代末の土坑からは渥美窯の秋草文壺(国宝)が見つかった[25]。
弥生時代
古墳時代秋草文壺(国宝)、慶應義塾大学所蔵。