川崎定孝
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川崎平右衛門像(個人蔵)

川崎 定孝(かわさき さだたか、 元禄7年3月15日1694年4月9日) - 明和4年6月6日1767年7月1日))は、江戸時代の農政家。宿場の名主を務め、後に抜擢されて江戸幕府旗本となった。通称、平右衛門、辰之助。
略歴

武蔵国多摩郡押立村(現・東京都府中市押立町)の名主の家の長男に生まれる[1]。幼名は「辰之助」[2]。母は、菅生村で代々名主役を勤めた旧家・田沢源兵衛の娘[3]。定孝が後に新田世話役になったのは、母の縁者である田沢源太郎義章の推挙が大きかったという(楠善雄『多摩川流治水工法を生んだ人々』[4])。

武蔵国小金井関野新田と鶴ヶ島陣屋を置いて[2]、それぞれ手代の高木三郎兵衛と矢島藤助をそこに配した[4][5][6]享保年間には、樹木や竹など土木を扱ってその世話を担当し、私財まで投じて武蔵野新田の窮民の救済を行った。新田の開拓は82に上る[2]。押立町を含む多摩川流域の40キロメートルにわたる治水工事、凶作時の農民救済、生活安定の基礎となる井戸掘り公共事業、作業者への働きに応じた報酬、私財を投じて六所宮(大國魂神社)随神門修理などを行ない、それを称揚される[7]。武蔵野新田を預けられて月俸10口(役料10人扶持)を給され、後に支配勘定格となり月俸は20口に加増される[8]。『府中市郷土かるた』では「ききん救った平右衛門」と読まれている。「ききん救った平右衛門」(東京都府中市本山神社)

1723年、押立村名主となる。小金井原を開拓し、時の将軍徳川吉宗を献上したほか[2][9]、武蔵野の蕎麦や多摩川の夏鮎を毎年江戸城に納めた[10][11][12]。1739年、苗字帯刀を許され[13]武蔵野台地に82の新田を開発する。宝暦4年(1754年)7月18日に美濃国代官となり、150俵を給される[8][14][15]

寛延元年(1748年)、御徒町に仮の屋敷を拝領し、美濃国在勤中の宝暦8年(1758年)には神田佐柄木町玉ヶ池に屋敷を正式に拝領[16]。宝暦10年(1760年)5月2日、支配地域の場所替と、担当領域の増加が決まる[15]

明和元年(1764年)、備後鞆津に出張し、朝鮮通信使の応接御用係を務める[17]

明和4年(1767年)4月15日に勘定吟味役に昇進、石見国銀山奉行を兼役する。同年5月15日、布衣着用を許される[8][18][19]。同年6月6日に病死。享年74。法名は道栄。故郷の押立村にある龍光寺(竜光寺)に葬られる[8][14][20]

名主・農政家として活躍するかたわら、薬の販売にも携わっており、享保17年(1732年)4月に象洞や白牛洞という薬の発売を出願し、許可されている。象洞は、[21]の糞を乾燥させて作った丸薬で、疱瘡に効くとの触れ込みで売り出され、販売益は新田開発や大國魂神社の随神門の造営費に充てられた[22][23][24][11][25]。薬の宣伝用に、両国橋石置場で象の見物もさせたが、後に借金を抱えて販売所は閉鎖に追い込まれている。

農間の渡世として茣蓙を織っていた美濃国山県郡深瀬村の村民に「蓙織より花蓙織をやった方が収入がもっと増える」と教え、北武蔵の入間郡坂戸村から熟練者を1人招いて技術を伝達させた。半年間の指導で技術が習得され、この話を聞いた名古屋の職人達も深瀬村に来て、技術の伝授を受けた。その後、花蓙は、美濃から尾張にも広まった[26]

寛延(1750年)ごろに、中野島村という村に美濃から苗木をとりよせて接木し、土地に適したため村内にひろまった。このは美濃梨といわれ、この地方の梨栽培の中心をなしたという[27]
大岡支配役人

大岡越前守忠相は、享保7年(1722年)から関東の農政を掌る関東地方御用掛という職に就いており、配下の野村時右衛門と小林平六に武蔵野新田の開発を命じた。野村と小林は押立村の名主だった定孝に開発を請け負わせたが、後に2人は不正や納入する年貢の滞納などを理由に罷免される。新田の開発はその後も定孝に任され、完成した後、同地は大岡の配下の役人・上坂政形の支配所となる[28]

定孝は上坂の下で、武蔵野新田の竹林や栗林の植林などの御用を務めるが、元文3年(1738年)に新田は大凶作に見舞われる。大岡は上坂に御救米や御救金を与えるよう指示を出した後、定孝を役料10人扶持の新田世話役に任命し、彼の下役の手代である高木三郎兵衛と矢島藤助にも、それぞれ金10両2人扶持を与える[29][30][31][32][33]。定孝は復興のため「飲水堀用水」と「出百姓立帰料(でひゃくしょうたちかえりりょう)」の費用として、1ヵ年250両の6ヵ年支給を大岡を通して幕府に申請し、認められる。農業精励の度合いに応じて褒美を与える奨励金制度を設けたほか、江戸からの肥料の仕入れをまとめて行うことで費用を安くし、収穫した大麦小麦などをその年の相場の1、2割増しで買い上げ、各村に備荒用に貯蔵させるなど様々な施策を行った。また、困窮した民を救済するための「御救普請」も実施し、その際に人足役を仁・義・礼・智・信の5段階に分けて扶持米を支給している『高翁家録』[14][28][34][35][36]


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