川崎人工島
所在地 日本
所在海域東京湾
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度29分29秒 東経139度50分5秒 / 北緯35.49139度 東経139.83472度 / 35.49139; 139.83472
川崎人工島(かわさきじんこうとう)は、神奈川県川崎市川崎区浮島町沖5 kmの東京湾に位置する、直径200 mの円形の人工島である。自動車専用道路東京湾アクアラインのアクアトンネル建設および換気のために造成されたものであり、通常は関係者以外の立ち入りはできない。ただし、アクアトンネルの避難ルートの一部となっており、退避用にヘリポートと小型船舶専用の接岸設備を備える。 東京湾に横断道路を建設する考えは、1958年に千葉県と木更津市他4市町村が建設促進の要望書を出すなど[1]昭和30年代前半には存在していた。昭和40年代後半の建設省案では川崎側・木更津側各1/3を橋梁、その中間を沈埋トンネルとするものであり、川崎側の人工島も現在の木更津人工島(海ほたるパーキングエリア)同様、斜路でトンネル部と橋梁部を接続する構造となる計画であった[2]。しかし、船舶航行量調査で川崎側の航行が過密であること、川崎側は木更津側に比べ水深が深く基礎の構築に多額の費用を要すること、羽田空港に近く、川崎人工島131 m、浮島53 mの高さ制限があるため高い主塔を必要とする吊り橋の採用も困難であること[3]に加え、シールド工法の進歩から、1985年に川崎側2/3をシールドトンネルとすることを決定した。 1989年5月に起工式を実施、同年8月より川崎・木更津の両人工島部の海上と浮島町で地盤改良工事に着手した。本体工事は二重の円形に組んだジャケットと呼ばれる鋼管トラス製の構造物の間に、厚さ2.8 m・内径98 m、鉛直方向119 mの円筒形の鉄筋コンクリート製地中連続壁を構築し、内部の海水を抜き連続壁内側のジャケットを撤去したのちに内側を掘り進む工法が採られた[4][5]。最下部まで掘削後、底に厚さ0.5 mの均しコンクリートを打ち、人工島下部の骨格となる、10分割されたプレハブブロックの据え付けを開始した[6]。1993年11月14日、均しコンクリート下の基礎砕石層の水抜きパイプから水が噴き出しているのが発見された。当初は一日2000トンだった出水は24日後には一日5000トンに達し、人工島水没の危険が生じ始めた。一日1万トンの井戸水を注水し、水圧のバランスをとり出水を抑える方法が講じられたが、それでも水位は上がらず、12月2日には海水の注入が開始された。水圧のバランスが取れたところでセメントミルク アクアトンネルは上下線2本のシールドトンネルで構成され、浮島と木更津人工島から川崎人工島方面、川崎人工島から浮島と木更津人工島各2台ずつ、合計8基のシールドマシンで掘削される。川崎人工島には1300トンに分割されたシールドマシン4基がクレーン船で搬入された。その発進地点として地中連続壁の撤去が必要となる。当初はジャイアントブレーカーで壊す予定でいたが予想以上に強度があり、厚み2.8 mのうち2.6 mを発破で壊し、残りをジャイアントブレーカーで破壊する方法が採られた。1994年8月より掘削開始、1996年8月までに完了した[8]。そして東京湾アクアラインは、1997年12月18日に開通した。 12度傾斜した大小2本の円筒形の塔で構成された換気塔
歴史
建設
風の塔上空から
塔のデザイン決定には平山郁夫と澄川喜一が携わり[12]、羽田空港を発着する旅客機からの景観や、船舶からの視認性を高めるため[13]群青色と白色の幅10 mの横ストライプのデザインが採用された。