この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "川島永嗣"
川島 永嗣
サッカー日本代表での川島永嗣
(2018ワールドカップグループH・ポーランド戦)
名前
愛称カワ、エイジ
カタカナカワシマ エイジ
ラテン文字KAWASHIMA Eiji
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1983-03-20) 1983年3月20日(41歳)
出身地埼玉県与野市(現:さいたま市中央区)
身長185cm
体重82kg
選手情報
在籍チーム ジュビロ磐田
ポジションGK
背番号1
利き足右足
ユース
1995-1997さいたま市立与野西中学校
1998-2000埼玉県立浦和東高等学校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
2001-2003 大宮アルディージャ 41 (0)
2004-2006 名古屋グランパスエイト 17 (0)
2007-2010 川崎フロンターレ 113 (0)
2010-2012 リールセSK 53 (0)
2012-2015 スタンダール・リエージュ 68 (0)
2015-2016 ダンディー・ユナイテッドFC 16 (0)
2016-2018 FCメス 34 (0)
2018-2023 RCストラスブール 26 (0)
2024- ジュビロ磐田
代表歴2
2002-2003 日本 U-2013 (0)
2008-2022[1] 日本95 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2024年1月12日現在。
2. 2022年6月10日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
川島 永嗣(かわしま えいじ、1983年3月20日 - )は、埼玉県与野市(現:さいたま市中央区)出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ジュビロ磐田所属。 ポジションはゴールキーパー(GK)。元日本代表。 少年時代は地元の与野八幡サッカースポーツ少年団で基礎を学ぶ。当時からゴールキーパー志望で、セルヒオ・ゴイコチェアに憧れを抱いていた[2]。与野西中学校時代に本格的にキーパーのポジションを始めた。埼玉県選抜に選ばれ、ドイツとオランダへ遠征を行った経験がある。その後埼玉県立浦和東高等学校へ進学し、3年の間に選手権・国体・高校総体と高校サッカー3大全国大会すべてに出場した。 学生時代の成績は優秀で、周囲からは大学進学を勧められていたが、プロでやっていくことを決断[3]。しかし、地元浦和レッズのセレクションは不合格となる。その後もうひとつの地元クラブである大宮アルディージャへの加入が決定。川島の獲得を決めたのは、当時大宮で強化部長の職にあった佐々木則夫(後にサッカー日本女子代表監督)である[要出典]。 大宮加入後、イタリア・セリエAのパルマへ留学[4]。当時GKコーチを務めていたエルメス・フルゴーニの指導を受け[5]、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}若手選手たちが出場する「ヴィニョーラ・トーナメント」に参加。チームは優勝を果たし、川島自身はベストゴールキーパーに選出された。[要出典] 一方、トップチームではルーキーイヤーの2001年は白井淳が守護神を務めており出場機会はなく、白井引退後の2002年に公式戦デビューを飾るものの、安藤智安・荒谷弘樹に次ぐ3番手の位置づけであったが、入団3年目の2003年になると正GKの座を確保した。 大宮と後述のワールドユースでの活躍もあってオファーが殺到。2004年に複数舞い込んだ移籍話の中から、あえて当時日本代表で活躍していた楢ア正剛が在籍する名古屋グランパスエイトへ移籍。しかし当時が円熟期にあった楢アの牙城は堅く、公式戦では控えに甘んじる日々が続き、結果的にアテネオリンピックの代表メンバーからは外れた。 2005年シーズンも楢アの控えの位置づけは変わらず、楢アが2005年シーズン終盤に負傷すると翌2006年シーズン序盤に出場機会を得たものの、楢アが復帰した第9節以降の川島は2試合の出場に留まった。2004年から2006年の3年間の公式戦出場はリーグ戦17試合、Jリーグカップ18試合、天皇杯1試合の計36試合であり、総試合数の3分の1程度であった。2006年からグランパスの監督に就任していたセフ・フェルフォーセンは楢アと競うことは川島の成長に繋がらないと考え、川島に確実にプレーできるチームへ移籍することを勧めた[6]。 2006年のシーズン終了後、2007年シーズンにクラブ初のAFCチャンピオンズリーグ出場を控えている川崎フロンターレから獲得のラブコールを受け、当時の川崎のクラブ史上最高額となる1億5000万円の移籍金で完全移籍[要出典]。相澤貴志や高卒2年目の杉山力裕を抑え、開幕から正GKとして全試合フル出場を達成した。その後、2008年になると相澤がセレッソ大阪に期限付き移籍し、入れ替わりで吉原慎也が東京ヴェルディ1969から復帰したものの、2年連続全試合フル出場を達成した。2009年も3年連続全試合出場を果たし、2010年に移籍するまで112試合連続出場を続けた。 フェルフォーセンが旧知のアイメ・アントゥエニス リールセでは開幕戦から正GKとして起用されたものの、チームはなかなか勝利に恵まれず、毎試合大量失点を喫するなど常に残留争いの渦中にいたが、最終節のクラブ・ブルッヘ戦で、無失点に抑える活躍を見せ、逆転で昇格1年目となったリールセの1部残留に貢献したことで、リールセのサポーターの選ぶチームMVPに選出された[8][9]。 2011年8月19日、リーグ第4節ゲルミナル・ベールショット戦で、一部のゲルミナルサポーターが川島に対し「カワシマ、フクシマ!」と同年3月11日に発生した福島第一原発事故に絡めた野次を飛ばしたため、これに激昂した川島が相手サポーターと審判に猛抗議し、試合が一時中断する騒動が起こった[10][11]。これに対し、リールセはベルギーサッカー協会に抗議し[12]、騒動を起こしたゲルミナルは公式HPに日本語で謝罪文を掲載し[13]、9月にはゲルミナルのファノペン会長が直接川島に謝罪した[14]。 10月14日よりリールセの主将に任命された。2011-12シーズンは、リーグ・カップ戦全36試合にフル出場し、前シーズンリーグワーストであった失点数も劇的に減るなど守備の要として2年連続での残留に貢献し[15]、2季連続でチームMVPに選出された[16]。 2012年7月17日、ジュピラーリーグ4位(リールセは12位)のスタンダール・リエージュと3年契約を結び、同クラブへの完全移籍が発表された[17]。2012-13シーズンは移籍1年目ながらリーグ戦全試合にフル出場した。 2014-15シーズンはシーズン中盤からレギュラーを外れた。2015年5月23日、スタンダール・リエージュを退団する事が発表された[18]。 2015年6月にスタンダール・リエージュを退団後は、移籍先が決まらずベルギーのチーム[19]やイタリア2部のノヴァーラ・カルチョ[20]、岡崎慎司の所属するイングランドのレスター・シティFC[21]などのチームの練習に参加したが契約には繋がらず、無所属の状態が続いた。また、無所属という事で長年選出されてきた日本代表からも外された[22]。10月には古巣のスタンダール・リエージュへ復帰する可能性があると報道された[23]が、11月3日にスコットランドのダンディー・ユナイテッドFCと加入合意したことが発表され[24]、12月29日に正式に加入[25]。所属チームが決まった事もあり、2016年には代表復帰を果たした。降格危機にあるチームの救世主として期待され[26]、第22節ダンディーFC戦 (ダンディー・ダービー
クラブ来歴
プロ入り前
大宮アルディージャ
名古屋グランパスエイト
川崎フロンターレ
リールセSK2011年
スタンダール・リエージュ
ダンディー・ユナイテッド