川島喜代詩
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川島 喜代詩(かわしま きよし、1926年10月29日2007年4月24日)は昭和から平成期の日本の歌人である。出版業に携わりながら佐藤佐太郎門下で活躍した。後「歩道」を離れ「運河」を結成、同人として活躍した。
経歴

大正15年(1926年)10月29日、
東京浅草鳥越に父喜之助、母むねの次男として生まれる。家業は帽子製造卸業。

昭和18年 豊島商業学校に編入学、卒業。

昭和20年 9月まで5ヶ月間兵役に従う。

昭和22年 朝倉書店に入社、明治大学専門部政治経済学科に入学、同昭和25年3月卒業。

昭和26年 1月南青山町に佐藤佐太郎を訪問、ノートの選歌を受けて感奮、「歩道」に入会。

昭和28年 職場の同僚青山彩子と結婚。

昭和31年 上司の誠信書房に投じ多忙、作歌を中断、過労で病臥。

昭和35年 秋再び「歩道」に復帰。

昭和39年 独立自営の道を選び、新宿区西新宿学術書出版の川島書店を創業。

昭和44年 第1歌集『波動』を上梓、第14回現代歌人協会賞を受賞、現代歌人協会会員。

昭和50年 第2歌集『層灯』を刊行。

昭和56年 『短歌研究1980年4月号』の「冬街30首」によって、第17回短歌研究賞を受賞。

昭和58年 3月同志とともに「歩道」をはなれ、「運河の会」を結成。

昭和58年 6月第3歌集『星雲』を刊行。同8月歌誌『運河』創刊。

昭和61年 第4歌集『人の香』刊行。

平成6年  第5歌集『水の器』刊行。

平成10年 第6歌集『消息』刊行。

平成11年 秋田県にかほ市賀祥山禅林寺境内に歌碑建立。

平成12年 11月歌碑除幕式、碑歌は「大寺は山を負へれば朝闌けてわが身あづけんしづけさにあり」。

平成16年 大脳皮質基底核変性症の診断。

平成17年 第7歌集『沈黙』刊行。

平成19年 4月24日 気管支肺炎のため逝去。享年80。

歌風

第一歌集『波動』を上梓した42歳の川島喜代詩はその後記のなかで、「なぜ歌をつくるのか」と自らに問い「歌は生のあかし・・・。歌をつくる営みは世界の深奥とかかわる、この5句31音の詩型が世界への飛翔を可能にしてくれる・・・。歌が生をささえる」と述べている。

20代はじめから佐藤佐太郎の短歌に親しみ、「歩道」に入門した川島喜代詩は、正師の「純粋短歌」の写実に徹し、都会的な景物から次第に自然、世界の事物を見る目を深め、天性のしなやかな語調で自らの生の憂いをうたう短歌を詠んだ。「物を確かに見て、確かに現す」という写実の骨法は次第に深化し、後年には「見ることは気づくこと、こころを留めることであり、うたは物にこころをあずけること、人のこころを温めるもの、こころの器である」と言っている。

川島喜代詩の作歌は20代後半から70代後半にまで及んでいる。出版された7冊の歌集の総歌数は、3337首である。また詠出と歌集刊行の時期に10年ほどの遅れがあって、晩年の未出版の歌数は平成7年(69歳)から平成15年(77歳)までの8年間、800数十首にのぼり未刊のまま残された。
著書

『波動』  昭和44年11月刊、歩道叢書83

『層灯』  昭和50年11月刊、歩道叢書151

『星雲』  昭和58年6月刊、短歌新聞社

『人の香』 昭和61年12月刊、短歌新聞社

『水の器』 平成6年8月刊、青娥書房

『消息』  平成10年12月刊、青娥書房

『沈黙』  平成17年4月刊、青娥書房

『歌集 川島喜代詩集』 照井方子編、平成18年7月発行、平成元年(1989年)1月から平成15年(2003年)5月までの15年間の『運河』掲載歌1800首および他誌への寄稿作品52編643首を収録。(歌集『消息』以降の平成元年?平成15年に至る全短歌に相当を収録)。国会図書館、日本現代詩歌文学館蔵


『出版人の萬葉集』 平成8年2月、出版人の萬葉集編集委員会/編著者代表 川島喜代詩

  日本エディタースクール出版部
外部リンク

図書出版 川島書店

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