かわしま なおみ
川島 なお美
本名鎧塚 なお美
生年月日 (1960-11-10) 1960年11月10日
没年月日 (2015-09-24) 2015年9月24日(54歳没)
出生地 日本・愛知県守山市(現・名古屋市守山区)[1]
死没地 日本・東京都
身長158cm
血液型AB型
職業女優
ジャンル映画
テレビドラマ
バラエティ番組
活動期間1979年 - 2015年
配偶者鎧塚俊彦(パティシエ)
主な作品
バラエティ番組
『お笑いマンガ道場』[1]テレビドラマ
『家なき子2』
『失楽園』[1]
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川島 なお美(かわしま なおみ、1960年〈昭和35年〉11月10日 - 2015年〈平成27年〉9月24日[1][2])は、日本の女優、タレント、歌手。本名、鎧塚 なお美(よろいづか なおみ)。旧姓、川島[3]。二人姉妹の長女[3]。血液型はAB型[3]。身長158cm、B82cm、W58cm、H84cm(1982年6月)[3]。
愛知県守山市[補足 1](現・名古屋市守山区)出身[3]。最終所属は太田プロダクション。夫はパティシエの鎧塚俊彦。 父親は名古屋高等裁判所事務局長[3]。名古屋市立大森中学校[3]?愛知県立中村高等学校[3]?青山学院大学文学部第二英米文学科卒業[3]。高校在学中、スクールメイツに所属し[3]、歌とダンスを学ぶ。その後平尾昌晃の音楽教室に通う[3][4]。1979年、大学入学と同時に上京し、『シャンペンNo.5』で歌手デビュー[3]。笑福亭鶴光のオールナイトニッポンでアシスタントを務めた[1][3][4]。 文化放送が『セイ!ヤング』の後番組として、1981年10月からスタートさせた『ミスDJリクエストパレード』の火曜日担当パーソナリティに抜擢され、深夜の顔となる[3]。当時は大学在学中であり、女子大生DJと呼ばれ、女子大生ブームの中心的存在となる[1][4]。この当時は自身も「ミスDJでは一人の女子大生としておしゃべりしている」と話していたことがある[5]。 学生時代は剣道部に所属し有段者である。大学生時代に試験でカンニングをしたことがある[3][補足 2]。この際の「開き直り」的発言が一部で物議を醸した。 1982年、中京テレビ制作『お笑いマンガ道場』の三代目女性レギュラーとなり、プロ顔負けの画力と、芸人顔負けのネタの巧みさを披露し、同世代以外からの知名度と人気を獲得した[1]。1989年秋に番組卒業が決まったが、同年8月8日、9月から明治座で『水戸黄門』の舞台公演でのフィルム撮影のため現場に向かう途中で、ロケバスが崖から転落する事故に遭った。第七頸椎を骨折する大怪我を負ったが顔は無傷だったことをすぐに確認したという[補足 3]。この影響からそのまま復帰することはなく降板に至った[補足 4]。番組の司会だった柏村武昭とは生涯交流を持ち、柏村の地元である広島を訪れた際は共にゴルフをするのが恒例だったという。 女子大生タレントのイメージがいつまでも抜けず、出演番組は限られるなど不遇な時代が続いたが、1993年、30代にしてヘアヌード写真集『WOMAN』を発表し、55万部の大ヒットとなる。これをきっかけに妖艶な女優へとイメージチェンジする[4]。青学4年時の報知新聞のインタビューで「高校時代から、歌手になる前から女優になるのが夢です。完全ヌードも女優になれたら考えます」と話していた[3]。判事だった父の立場を考慮し、父が退官するのを待って発行した。 デビュー当初から世良公則のファンを公言していたが[3]、川島が売れ始めたころには世良は高校の同級生と結婚していた。1994年の東映『新極道の妻たち 惚れたら地獄』の共演をきっかけに世良と不倫状態に陥ったとされ[6]、川島の最初の所属事務所の社長だった人物が、同年川島の暴露本を発売し[6]、名前を出された世良が激怒し猛抗議した[6]。 1997年、『失楽園(TVドラマ版)』に主演し話題となる[1][4]。ベッドシーンでは「子宮が呼吸できない気がする」との理由で撮影中に前張りを取ることを『週刊ポスト』(1997年11月3日号)のインタビューで告白した[7]。 『おしゃれカンケイ』にゲスト出演した際、通常スタジオの観客は番組スポンサーである資生堂の方針で女性と決められているが、川島が出演する回に限り、観客は男性限定となった。 2013年8月に健康診断で腫瘍が見つかり、即手術を勧められるも拒否。代替策としての抗がん剤治療も拒否した[1]。腫瘍は肝内胆管癌であることが判明。「この人になら命を預けられる」と思える医師との出会いを果たして、翌年1月末に手術を受けた。川島の望みどおり、全て腹腔鏡下で行われた手術は12時間にも及んだという[8]。
来歴