川北亮司
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川北 亮司(かわきた りょうじ、1947年10月31日 - )は、日本の児童文学作家童話作家漫画原作者脚本家エッセイスト。作者名は「かわきたりょうじ」「川北りょうじ」「川北亮司」。東京都出身。
略歴

1947年(昭和22年) 10月31日、東京都
荒川区尾久町(現・町屋)で、父・多美之佐(たみのすけ)母・仙子(せんこ)の2男として生まれる。尾久隣保館を卒園したあと荒川区立大門小学校に通った。荒川区には11歳まで住んでいた。小学6年生になるとき文京区戸崎町に転居したが転校はせず、1年間、文京区から大門小にバス通学をした。

1960年 文京区立第九中学校では天文気象部に所属。ラジオ放送を聞きながら天気図が書けるようになった。中学時代は、TVの「ローハイド」に夢中になり、海外の映画音楽を聞きまくる。イギリスBBCに手紙を出したり、NHKのラジオ講座でロシア語を少し勉強するなど、異国への憧れを募らせていた。

1963年 東京都立北高等学校に入学と同時に将棋にのめり込む。プロ棋士を夢見て毎週日曜日、千駄ヶ谷日本将棋連盟道場に朝から深夜まで入り浸った。しかし学校の勉強をほとんどしなかったので、両親に猛反対される。夏休みに将棋駒の産地、山形県天童へ11日間のヒッチハイクを決行する。

1964年 将棋を諦めてから、東京オリンピックの熱気の中でバレーボールに熱中する。高1の1年間で身長が10cm伸びて181cmになっていた。学校の成績は学年450人中400位くらいだった。

1965年 現役のとき、大学の地質鉱物学科への進学を目指したが、数学ができず断念。

1966年 1浪のとき、文学部へ方向転換するが、英語ができず2浪することになる。

1966年?1968年 2年間の浪人時代、後楽園球場(現、東京ドーム)でアイスクリームとコーヒーの売り子のバイトをする。全面改築された文京区立小石川図書館で毎月1回、淀川長治の映画解説を聞き、戦後の外国映画に興味を持つ。大学生になってから名画座通いをするきっかけになった。当時、NHKで放送されていた「ひょっこりひょうたん島」に夢中になる。ペンフレンドだった大島登志子さんから『星の王子さま』を勧められ、大学では童話のサークルに入ろうと思っていた。

1967年?1970年 都立白?高校女子バレー部のコーチを勤める。

1968年 世界史の問題のヤマが当たって、まぐれで早稲田大学第一文学部に入学。児童文学サークル「少年文学会」(旧「早大童話会」)に入会する。「少年文学会」の顧問的存在だった坪田譲治宅の「びわの実文庫」の手伝いに、ときどき行っていた。

1969年 ぬいぐるみ劇団「ピッカリ座」(主宰・足立明 脚本・城山昇 人形制作・田畑精一)で、身長2メートルを越える宇宙人のデバドン役で、3年間ほどアルバイトをする。1ステージ3000円のギャラは他の人の1.5倍だった。「少年文学会」の先輩、後藤竜二大岡秀明に誘われ、児童文学研究集団「風車(かざぐるま)」を結成する。「風車」はその後メンバーを広げて、1975年に「ある研」(機関誌名「燃える樹」)に。さらに1978年に全国児童文学同人誌連絡会「季節風」へと発展していく。

1970年 『はらがへったら じゃんけんぽん』(ナンセンス童話集 山崎英介・絵 講談社)でデビュー。翌年、第4回日本児童文学者協会新人賞を受賞する。

1971年 「両足そろえて1,2の3」<脚本>(「NHKTVおかあさんといっしょ おはなしこんにちは 放送台本」三枝成章・音楽 神保共子・出演)児童文学を書きはじめて4年目だったので、週1本の放送台本を書く力量はなく、この1作で放送作家の道を断念した。そのころ大学では70年安保闘争めぐって学生運動が激化し、「少年文学会」が文学サークルとして機能しなくなったため、1972年に新たな児童文学サークル「早大児童文学研究会」を創設する。部員は3人で部室は8号館地下だった。

1973年 『ふにふに むにょらっ』(福田庄助・絵 童心社)出版。卒論として書いた『街かどの風』(小林与志・絵 フレーベル館)出版。1975年 に『街かどの風』が、NHK TVの「少年ドラマシリーズ」で『キヨ子は泣くもんか』(脚本/岩間芳樹 音楽/熊谷賢一)として放送される。


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