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誕生川内 潔
(1920-02-26) 1920年2月26日
日本 北海道 函館市
死没 (2008-04-06) 2008年4月6日(88歳没)
日本 青森県 八戸市
職業作詞家、脚本家、作家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴小学校
活動期間1952年 - 2008年
代表作『月光仮面』
子供飯沼春樹
公式サイトhttps://kawauchi-office.jp/
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川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月26日 - 2008年〈平成20年〉4月6日)は、日本の作詞家、脚本家、政治評論家、作家。本名は川内 潔(かわうち きよし)。北海道函館市出身。 川内は1920年(大正9年)、日蓮宗の寺に生まれた[1]。小学校を卒業後、様々な職業を転々とする。大都映画で大道具だった兄を頼って上京、新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね日活のビリヤード場に就職、人脈を広げて日活の撮影所に入社する。 1941年(昭和16年)、川内は東宝の演劇部へ入社した。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当した[注釈 1]。その傍ら舞台の脚本なども執筆する。東宝を退社後、新東宝やテレビなどの脚本家、浅草の軽演劇の劇作家として本格的な活動を開始した。 東宝時代、人形劇映画『ラーマーヤナ』の脚本を執筆した[1]。川内は以前よりマリオネットに興味を持っていたことが誇張されて円谷英二の耳に入り製作に携わることになった[1]。製作中に召集令状を受け横須賀海兵団に入団する[1]。 1945年(昭和20年)、第二次世界大戦の戦没者の遺骨引揚運動を開始し、1955年(昭和30年)まで10年間続けた。また、海外の日本人抑留者の帰国運動もおこなっている。 川内は1950年代から1960年代にかけて、多くの映画の原作脚本を手がけた。特に1958年(昭和33年)に原作と脚本を手がけたテレビドラマの『月光仮面』は有名で、子供向け番組の原作や監修も手がける。その後は作詞活動を始め、「誰よりも君を愛す」、「君こそわが命」、「骨まで愛して」、「恍惚のブルース」、「花と蝶」、「伊勢佐木町ブルース」、「おふくろさん」など数多くのヒット曲を送り出した。 1973年(昭和48年)5月、川内自身が買った殖産住宅相互株式会社株3万株を殖産住宅相互株式会社に引き取らせた[2]。 1974年(昭和49年)には、機動隊の応援歌を作詞する一方で暴力団の稲川会のために歌を作詞したことで話題となった[3]。 1975年(昭和50年)から監修として携わったテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』は、1994年まで20年弱にわたる長寿番組となった。 1984年(昭和59年)のグリコ・森永事件では、週刊誌上(週刊読売)にて「かい人21面相」を名乗る犯人に対し「私財1億2000万円を提供するから、この事件から手をひけ」と呼びかける。犯人は川内の申し出に対し「月光仮面の 川内はん あんたも ええ男やな」と前置きした上で、「けどな わしら こじきや ない」と拒絶したため(1984年(昭和59年)11月22日付声明文)、このことで事件が収束に向かうことは無かったものの、大きな話題を呼んだ。 かつてはメディアの露出も多く、多数の週刊誌連載を抱えていた。2005年前後に青森県八戸市に引っ越したこともあってか[4]晩年まで地元紙である『デーリー東北』には時事問題等についての寄稿や投稿が多かった。 2000年代あたりからは、年齢及び体力的な問題もあり公の場への登場は控えていたが2007年(平成19年)2月、川内は歌手の森進一に対し今後自作曲の歌唱禁止を通告する会見を開き、いわゆる「おふくろさん騒動」が勃発し数十年ぶりに時の人となった。この騒動は新聞の社説にまで取り上げられた。 晩年は薬害肝炎問題の対応に苦慮する福田康夫総理にアドバイスしたとも言われ、国民新党顧問に就任した。 2008年(平成20年)4月6日午前4時50分ごろ、川内は居住地であった青森県八戸市の病院にて88歳で没した。死因は、慢性気管支肺炎であった。戒名は「生涯助ッ人」。4月8日に荼毘(だび)に付された時は「戒名は不要」という生前の意向が尊重されたが、この日になって親族らが相談し、故人にふさわしい戒名を考えたという。歴代首相に水面下で助言するなど、人のために尽くすという川内のポリシーが由来で、著書「生涯助ッ人 回想録」のタイトルにも使用していた。 『月光仮面』を筆頭として、1960年代に『七色仮面』『アラーの使者』、1970年代前半に発表された川内三部作とも呼ばれる『レインボーマン』『ダイヤモンド・アイ』『コンドールマン』など、日本の特撮ヒーローの草創期に活躍した。 『月光仮面』のキャッチフレーズは「憎むな、殺すな、赦しましょう」であるが、これには川内が仏寺に生まれ育ったことが影響していると自ら語っている。しかし、「おふくろさん騒動」以降に小説版の再版が行われた際は「憎むな、殺すな、真贋(まこと)糺(ただ)すべし」と改めている[5]。 昭和30年代のテレビ番組は外国製人気番組の全盛時代であり、貴重な外貨を費やす外国製番組に替えて国産番組を増やしていくことは時代の要請でもあったが、この依頼に対して日本独自のヒーロー番組を作り上げる上で、コンセプトは仏教で言う『借無上道』?無償の愛こそがこの世で最も尊いという川内の考えであった。
生涯
日本的ヒーローの創造者