この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年12月)
川俣事件記念碑
川俣事件(かわまたじけん)は、1900年2月13日、群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現明和町)で、足尾鉱毒事件に関して、政府に請願するために出かける途中の農民と警官が衝突した事件。当時は兇徒聚集事件(きょうとしゅうしゅうじけん)と呼ばれた。「川俣事件衝突の地」碑
農民67名が逮捕され、うち51名が兇徒聚集罪などで起訴されたが、1902年12月25日、仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形で決着した。
概要
第1回?第3回押出し鉱毒事務所がおかれた雲龍寺
足尾銅山による鉱毒被害が増大すると、衆議院議員田中正造の主導の下、1896年10月4日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現館林市)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県鉱毒事務所がおかれた。
農民らは結束して東京に請願に出かけることにし、1897年3月2日、第1回の請願が行われた。当時、このような活動には名前がなく、農民らは東京大挙押出しと呼んだ。参加者は2000人。農民らは、米を持参して徒歩で数日がかりで東京に向かった。当時、鉄道はあったが、鉱毒被害地から東京までの運賃が、鉱毒で貧困化していた農民らにとっては非常に高かったため、徒歩という方法がとられた。第1回押出しは、榎本武揚農商務大臣との面会に成功し、榎本はこの直後、現地視察を行った。
しかし、榎本の視察があまりにおざなりだと感じた農民らは、同1897年3月24日再度押出しを行った。(実際には、榎本は鉱毒被災地の惨状に大変に驚き、第1次鉱毒調査委員会の設置を即決したことが分かっている)規模は7000人と伝えられる。途中の川俣にあった浮き船橋が、警察によって外されており、怒った農民らは対岸まで泳いで渡って船をつないだ。(単に農民らの到着が遅かったため、という説もある。当時は夜更けには浮き船橋は通常、外されていた)しかし、途中の岩槻町で、警察に芳林寺に押し込められた上に説諭され、惣代75名を除いて帰郷。惣代らも、結局3名が農商務省にたどりついただけで、大臣には面会できずに帰った。
鉱毒調査委員会が銅山に設置を命じた鉱毒沈殿池が決壊し、再び鉱毒が下流に流れて被害を及ぼしたことが主要な原因となり、第3回の押出しが、1898年9月26日に行われた。約10000人が、同様に雲龍寺を起点に東京に向かった。東京府南足立郡渕江村(現東京都足立区)の保木間氷川神社まで、約2500名がたどりついた。ここで、憲兵隊や警察による説得を受けた。このとき、鉱毒事務所でも重要な役割を担っていた田中正造も説得に当たった。当時、田中は与党議員だったため、自身が農商務大臣に直接かけあうことで収拾がつけられると考えていたとされる。農民らは田中の説得に応じ、惣代50名を残し帰郷した。惣代らは、田中の口利きで当時の大石正巳農商務大臣との面会には成功したが、直後に政権は崩壊。田中も野党議員となり、この面会は実を結ばなかった。 川俣事件の事実に関しては、後の裁判での証言などがまったくかみ合わない。警官と農民の証言がかみ合わないのは当然だが、農民同士の証言も全くかみあっていないため、事実関係の詳細は不明である。裁判も、起訴無効という形で決着したため、事実関係については決着がついていない。多くの研究者は、農民の証言がより正確だと考えているが、それでも説明のつかない部分が多い。 1900年2月、農民らはひそかに会合を開き、次回の押出しの段取りを決めた。前回説得する側に回った田中も、今度は説得することはなく、押出し決行日に合わせて国会で質問することにした。警察に知られるのを防ぐため、決行日は極秘とされ、準備する者だけが農民から農民に口伝で伝えられた。しかし実際は、集会などに警察が探りをいれており、決行日以外の詳細は警察側も知っていた。 2月12日午後11時ごろ、雲龍寺の鐘が途切れることなく連続して打ち鳴らされた。これを合図に、周辺町村の寺も鐘を連続して打ち始めた。その音を聞いて、さらに遠方の寺も鐘を打ち始めた。この合図は、20里(約80キロメートル)は伝わったという。警官に制止された寺もあったが、隣村の別の寺が鐘を打ち続けるため、制止は無駄であった。この合図の仕方は第3回押出しとほぼ同じである。 2月13日午前1時、700から800人の農民が雲龍寺に集結していた。警官は解散を命じたが、農民らは応じなかった。農民らによれば、土足で本堂に上がりこむなど、警官側が乱暴をはたらいたとしている。 同日、朝から、雲龍寺に農民が集結した。その数は不明であるが、鉱毒事務所の発表では1万2000。しかし、このときの人数は警察発表の2500人のほうがより確かだと考える研究者は多い。9時に一行は雲龍寺そばにあった渡良瀬川を渡り、館林町に向かった。群馬県警察部は約50名で監視していたが、一行はこれを突破した。 直後、渡良瀬川右岸の農民らと合流。前述の1万2000という数は、途中で合流した農民を含む数と考える研究者もいる。 館林町入口には10名ほどの警官がいたが一行はこれを突破。途中、11時ごろに館林警察署前で数名が拘引されそうになり、負傷者が出た。警察側は、農民のうち1名が馬で警察署に乗り入れたのが原因としているが、当人は馬ごと拘引されそうになったと証言している。いずれにしても、ここでどのようなやりとりがあったのか詳細は不明である。裁判終結後の農民の言及には、農民側が先に警察署敷地に石を投げ込んだというものもある。
第4回押出し(川俣事件)