川中島バス
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新宿高速バスターミナルにて

川中島バス(かわなかじまバス)はアルピコ交通が運行するバス事業のうち、長野県北部地域で主に運営しているバス事業の通称である。

この項では、前身である「川中島自動車」「川中島バス」およびアルピコ交通長野支社のバス路線について記述する。
沿革
創業期

川中島バスの直接的なルーツは、1925年12月23日長野県更級郡川中島村上氷鉋を拠点として設立された川中島自動車であるが、2008年現在の川中島バスが主な営業エリアとしている地域に乗合自動車が走り始めたのは、それ以前の1916年5月に上水内郡小川村の高府自動車商会が運行開始した、長野と高府を結ぶ路線の開設に端を発する[1]。この後も長野市以南には、1918年12月26日に北信自動車馬車により松代と篠ノ井を結ぶ路線の運行が開始されたのをはじめとして、戸倉・更埴にも乗合自動車の運行が開始されたほか、個人事業者による乗合自動車運行も数多く開始された[1]。また、長野県全体でも、1910年には南信自動車(信南交通の前身)が設立されているほか、1913年には丸子自動車が、1918年には佐久自動車商会(千曲バスの前身)が設立されていた[1]

こうした中、1915年中野を拠点としていた平穏自動車を譲り受けた宇都宮信衛は、早い時期に自動車輸送に将来を見出していたとされており[1]1923年には個人名義で長野市内に5路線の乗合自動車の運行を開始していた[2]。宇都宮信衛は、長野駅・善光寺を拠点として、戸倉・信州新町(以下単に「新町」とする)・戸隠を結ぶ乗合自動車の構想を立案し、篤志家や六十三銀行の出資や賛同を得た[2]上で、1925年に資本金10万円で川中島自動車を設立した[2]。そして、1926年3月30日付けで乗合自動車の許可を受け、同年4月4日より長野と上山田を結ぶ路線の運行を開始した[3]。当初は1日8往復で、運賃は片道1円52銭であった[3]。同年5月には篠ノ井と新町、稲荷山と新町を結ぶ路線の運行を開始、さらに6月には川中島と笹平を結ぶ路線の運行が開始されている。また、乗用貸切自動車の営業も、同年4月から開始している[3]

1927年に入ってからも、川中島自動車は路線網の拡大を進めた。同年9月には笹平から川中島を結ぶ区間を開設した上で川中島と高府を結ぶ路線とし、川中島では既に運行されていた長野への路線と連絡するようになった[3]。その一方で、同年には長野温泉自動車が設立されたが、宇都宮信衛は個人名義で運行していた路線を譲渡することでその設立を支援した[3]上、自らも同社の副社長に就任した[3]。同年には妙高高原地区において妙高自動車を設立することで、新潟県内にも進出した[4]

この頃、1928年には不況対策として、運賃の大幅な値下げを行ったうえで各種の割引乗車券の発売も行った[4]が、これは経営を圧迫する結果に終わり、1930年には全社員の減給や人員削減を余儀なくされている[4]
自主統合の動き

この頃、周辺の事業者との競争も激しくなっていた[5]。高府線では高府自動車商会との間で、長野から真島を経由して篠ノ井を結ぶ真島線では北信自動車との間には、数回にわたり話し合いや協定が行われているにもかかわらず、競合激化の一途を辿った[4]。妙高自動車も、小規模事業者との競合が激しくなっていたが、こうした中で、激しい競合を憂慮する意見も出てくることになった[4]

まず、妙高高原の旅館主が一元化により不当競争を排除する方針を決めた上で、川中島自動車に計画の推進を依頼した[4]。これを受けて、1930年7月に田口温泉自動車を資本金5万円で設立し、宇都宮信衛が社長となり、妙高自動車や赤倉自動車も路線運行の権利を譲渡することで運営に参画することになった[4]

また、昭和初期の不況もあり、小規模な事業者の経営は極めて苦しくなり、経営が続けられなくなるケースも出始めていた[4]。こうした中、1931年に「交通企業の合理化と交通事業の統制」を目的とした自動車交通事業法が公布され、1933年10月から施行された[6]。同法の精神は1路線1営業主義で、業者の集約によりバス事業を強化することを主な目的としていた[6]。同法の基準に満たない事業者も多く、それらの小規模事業者は資本力のある事業者と自主統合する方向性が形成された[6]

川中島自動車でも法の目的に沿う形で、1934年に高府自動車商会を合併し、大町まで路線を拡大したのを皮切りに、周辺の事業者の統合に着手した[6]。その後も裾花自動車・田口温泉自動車・野尻自動車商会を買収し、1937年までには長野・新潟の県境付近に事業基盤を有するようになった[6]。この頃には長野市周辺の山岳観光地の開発が本格化した時期であり[7]、川中島自動車では1934年より戸隠登山バスの運行を開始[7]、さらに1936年には鉄道省の急行列車と連絡して長野から飯綱・戸隠経由で柏原までの登山客輸送も開始した[7]

この頃、1930年から運行を開始していた省営自動車は、1934年に全国展開を企図した運行計画を策定したが、長野県内では上田と渋川を結ぶ路線(志賀草津高原線鹿沢菅平線)・塩尻と下諏訪を結ぶ路線(諏訪線)・長野と大町を結ぶ路線が計画されていた[8]。このうち、長野と大町を結ぶ路線は、既に川中島自動車が路線を運行している区間であり、自動車交通事業法で1路線1営業という方針が示された直後であったことから、川中島自動車では省営自動車反対の立場をとった[9]。地域住民の中には利便性が増すため省営自動車運行に賛成する考えもあり[9]、賛否両論となったが、省営自動車の長野と大町を結ぶ路線運行計画は道路改修費の不足や運賃競争力から、最終的には見送りとなっている[9]

この頃、冬季の自動車運行を確保するため、前輪の代わりに鉄製のスキーを装着し、後輪にはタイヤでなくキャタピラを装備した雪中バスの開発を行った[9]。試運転の結果も問題なかったが、実際の営業には使用されていなかった。
戦時中

日本が戦時体制に入ると、国内の物心は全て戦争に向けられることとなり[9]1937年には燃料統制が発令された[9]ことから、川中島自動車でもバスの代用燃料化に取り組んだ[10]。まずガソリンの代わりに灯油を使用する自動車を採用した[10]が、1940年には液体燃料の使用が禁止されたことから、木炭バスや薪バスが主流となった。同時に、1937年以降は不要不急路線の休廃止が行われることとなった[10]

陸上交通事業調整法の公布により、バス事業者は国策により極力統合する方向とされた。長野県は急ぎ調整を要する地域には指定されていなかった[10]が、既に自動車事業の経営は困難なものとなっており、国策に沿うべく川中島自動車は北信自動車などを次々と合併し、長野市を中心とする善光寺平西南部を一手に営業する事業者となった[10]1942年には鉄道省通牒により強制統合が進められることとなったが、長野地区では北東部を長野電鉄、西南部を川中島自動車を統合主体とすることになった[8]ため、既に自主統合を繰り返して営業エリアを拡大した川中島自動車の営業エリアについては、篠ノ井上田市を結ぶ路線群を千曲自動車から譲受した[11]程度で、強制統合の影響はほとんど受けない状態で終戦を迎えることになった[10]


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