川上郡
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この項目では、北海道にあるについて説明しています。岡山県にあった郡については「川上郡 (岡山県)」をご覧ください。
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日本 > 北海道 > 釧路総合振興局 > 川上郡
北海道川上郡の位置(1.標茶町 2.弟子屈町 薄緑:後に他郡から編入された区域 薄黄:後に他郡に編入した区域)[1]

川上郡(かわかみぐん)は、北海道釧路国釧路総合振興局

人口13,468人、面積1,873.7km²、人口密度7.19人/km²。(2024年3月31日、住民基本台帳人口)

以下の2町を含む。

標茶町(しべちゃちょう)

弟子屈町(てしかがちょう)

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町から標茶町の一部(チャンベツ地区)を除いた区域にあたる。
歴史
郡発足までの沿革

江戸時代の川上郡域は、松前藩によって開かれたクスリ場所に含まれた。

江戸時代以前から明治時代初頭の交通について、享和元年八王子千人同心によって川上郡虹別(現標茶町)から摩周湖の東を通り北見国斜里郡トンダベックシを結ぶ斜里山道が開削されている。

江戸時代後期、川上郡域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年川上郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して川上郡が置かれた。

その他、川上郡では古くから摩周温泉が知られていたようである。
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の川上郡の町村(9.熊牛村 10.弟子屈村 赤:標茶町 青:区域が発足時と同じ町村)

明治2年

8月15日1869年9月20日) - 北海道国郡里制が施行され、釧路国および川上郡が設置される。開拓使が管轄。

8月17日(1869年9月22日) - 佐賀藩の領地となる(北海道の分領支配)。


明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び全域が開拓使の管轄となる。

明治5年

4月9日1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。

10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。


明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区

第24大区

4小区 : 塘路村、熊牛村、弟子屈村、屈斜路村、虹別村



明治12年(1879年7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての川上郡が発足。


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