川上憲伸
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川上 憲伸ブレーブス時代(2009年)
基本情報
国籍 日本
出身地徳島県徳島市
生年月日 (1975-06-22) 1975年6月22日(48歳)
身長
体重179 cm
90 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1997年 ドラフト1位(逆指名)
初出場NPB / 1998年4月9日
MLB / 2009年4月11日
最終出場MLB / 2010年9月9日
NPB / 2014年5月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


徳島県立徳島商業高等学校

明治大学

中日ドラゴンズ (1998 - 2008)

アトランタ・ブレーブス (2009 - 2010)

中日ドラゴンズ (2012 - 2015)

国際大会
代表チーム 日本
五輪2008年
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

川上 憲伸
人物
職業野球解説者
YouTuber
公式サイトTwitter 川上憲伸
YouTube
チャンネル

川上憲伸 カットボールチャンネル

活動期間2020年5月21日 -
ジャンル野球
登録者数26.5万人
総再生回数1.06億回
事務所(MCN)ジャパンスポーツマーケティング
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2021年

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-10-28-00002023年10月28日時点。
テンプレートを表示

川上 憲伸(かわかみ けんしん、1975年6月22日 - )は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。現在は野球解説者YouTuberとして活動。
概要

現役時代は主に、NPBセントラル・リーグ)の中日ドラゴンズでエース投手として活躍した。2002年8月1日には、東京ドームで開催された対読売ジャイアンツ(巨人)20回戦でノーヒットノーラン(無安打無得点試合)を達成しているが[1]、これは21世紀のNPBでは初のノーヒットノーランである。また、対巨人戦でノーヒットノーランを達成した投手は2022年終了時点で、川上が最後である[2]
経歴

徳島市立国府小学校徳島市立国府中学校徳島県立徳島商業高等学校明治大学商学部[3]卒業。
プロ入り前

国府中学校時代は遊撃手だった。徳島県立徳島商業高等学校部長がたまたま球場に立ち寄って試合を見た時、2度強肩で補殺を成功させたのを見てスカウトした。

徳島県立徳島商業高等学校時代は入学した直後にショートのレギュラーとなり[4]、3年夏の第75回全国高等学校野球選手権大会に4番・エースとして出場した。2回戦の久慈商業戦では、自身が感じていたイップスのため、本来のピッチングができず最大7点差をつけられたが、8回に自身のタイムリーなどで追いついた[5]。9回に本来のピッチングを取り戻すと、その裏、サヨナラのホームを踏み、逆転勝利。この試合について川上本人は「僕はこの試合で、投げるのが怖いと感じていたイップスを克服した。7点差を克服したときに、自分自身が本来の自分に戻ったと思った」と語った[6]。3回戦の智辯和歌山戦では好投し1失点完投で破ったが、準々決勝の春日部共栄戦では試合中にマメが破れ降板、救援陣も打ち込まれて敗退。その後明治大学商学部に進学。

大学でもエースになると、大学2年秋と3年秋の(1996年東京六大学野球秋季リーグ優勝(全勝優勝)に貢献した。明治神宮大会は3年時は勝利投手ではないものの全試合先発[7]、4年時は決勝で完投する[8]など連覇。4年時には主将として活躍。慶應義塾大学高橋由伸とは同期のライバルとして好勝負を繰り広げた。リーグ通算57試合登板、28勝15敗、防御率2.14、311奪三振。ベストナイン3回。

1997年度ドラフト会議直前の10月31日に、大学の先輩・星野仙一監督の率いる中日ドラゴンズへの逆指名を表明[9]。ドラフト会議では、中日が川上の単独1位で交渉権を獲得。契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1300万円(金額は推定)という条件で入団[10]
中日時代

1998年シーズンには、公式戦の開幕から、一軍の先発陣に定着。14勝6敗という成績で、前述の高橋をはじめ小林幹英坪井智哉らも新人ながら好成績を残す中でセントラル・リーグ新人王に選出された[11]オールスターゲームに、プロ入り1年目にしてファン投票1位で出場し、MVPを獲得した[12]。登板は2イニングの予定だったが、野村克也監督からもう1イニング投げるよう指示があり、3イニングに登板した。「MVPは特大ホームランを打った松井秀喜選手かと思ったが、自分がルーキーだったこともあり譲ってくれたのだと思う[13]。野村さんの一言がなければ、MVP獲得は有り得なかった。ラッキーだった。」と川上は語っている[14]

1999年シーズンには公式戦で開幕投手を務めたが、10月2日の対横浜ベイスターズ戦では、7回を投げて19被安打(当時のリーグワースト記録)、14失点(当時のリーグ最多タイ記録)と打ち込まれた。この試合の前々日に中日ドラゴンズはリーグ優勝を決め、24時ごろまで会見などのメディア対応をし、さらに朝方まで宴会があったため「ぐだぐだ状態」での登板だった。「こんな状態で投げたのは後にも先にもこのときだけだった。」と後に川上がラジオ番組で振り返った[15]。チームのリーグ優勝で迎えた日本シリーズでは、チーム唯一の勝ち星を挙げたことから、敢闘賞を受賞。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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