川上宗薫
[Wikipedia|▼Menu]

川上 宗薫
誕生 (1924-04-23)
1924年4月23日
愛媛県東宇和郡宇和町
死没 (1985-10-13) 1985年10月13日(61歳没)
東京都世田谷区
職業小説家
国籍 日本
ジャンル私小説・大衆文学・官能小説
デビュー作『綿埃』(1949年)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

川上 宗薫(かわかみ そうくん、1924年4月23日 - 1985年10月13日)は、日本の小説家。本名はむねしげと読み、筆名もむねしげと読ませていた時期がある[1]愛媛県生まれ。
経歴

日本基督教団メソジスト派の牧師川上平三の子として[2]愛媛県東宇和郡宇和町卯之町(現在の西予市)に生まれる。大分県長崎県で小学校時代を送り、1937年鎮西学院中等部に首席入学[3]第七高等学校長崎高等商業学校の入試に失敗し[4]1943年西南学院に入学[5]1944年秋、長崎県大村の陸軍連隊に入隊。しかし肋膜炎を意図的に悪化させ、敗戦までの約1年間を入院患者として過ごす。

1945年8月9日、母と2人の妹を長崎原爆で喪う。このため父は棄教[6]。宗薫は退院の手続きが偶然遅れたために被爆を免れた。

1946年西南学院商科を卒業。1946年九州大学法文学部哲学科に入学、のち英文科に転科。1947年6月に最初の妻と入籍。大学に在籍する傍ら、長崎女子商業高等学校で英語を教えて生計を立てる[7]1948年3月、長女が誕生。1949年12月、大学4年生の時、『西日本新聞』の懸賞論文に『文学作品を読むこととは』を応募し三等に入選、賞金1000円を獲得。このころ学友会文藝部で小説を書き始める。1949年6月、『九大文学』に処女作『綿埃』を発表。同じ頃、同誌に川上翠雨の筆名で俳句を発表。

ウィリアム・ブレイクで卒論を書いて1950年に英文科を卒業した後、海星高等学校で教鞭をとるも1学期で退職し、千葉県東葛飾郡柏町(現:柏市)に移住。1950年から千葉県立東葛飾高等学校夜間部で英語を教える[8]傍ら、北原武夫に師事して小説家を志す。1952年、同人誌『新表現』『日通文学』に参加。1955年、『企み』を『文學界』に、『或る目醒め』を『群像』に発表して商業デビューを果たす。1954年から1960年まで芥川賞候補に計5回挙がったが受賞を逸する[9]。この間、1958年、『新潮』6月号に『文学をよそうと思う』を発表[10]

1959年、友人の水上勉が服の行商のかたわら書き上げた長篇『霧と影』を、河出書房の編集者坂本一亀に紹介する。だが、その後売れっ子作家となった水上に傲慢な振る舞いがあったことから、1961年、『新潮』6月号に短篇小説『作家の喧嘩』を発表。文壇的成功で先を越された自らの心情を戯画化した作品だったが、この作品のモデルにされた水上勉から名誉毀損で訴えられそうになり、菊村到田畑麦彦に調停を依頼したが失敗。このため複数の新聞社の文化部記者に「小説に書かれたことを事実と思わないでくれ」と懇願し、『朝日新聞』の匿名コラムで「世の中には変わった作家もいるものだ。自作を宣伝するためにこんなことを言って歩いている」「作家にあるまじき卑劣な根性」と批判されたことがある(この匿名コラムの筆者は百目鬼恭三郎だった[11])。一方、水上の側でも川上夫妻をモデルに小説『好色』を書いた[12]。このとき、川上の妻と思しき女性の陰部に関する事実めかした描写によって川上夫妻は大きく傷つけられ、特に川上夫人は自殺まで考えたという[13]。この『作家の喧嘩』事件については、川上の親友の佐藤愛子も『終りの時』の題で小説化した。

この間、1960年に東葛飾高等学校を退職していたが、水上勉とのトラブルにより文芸誌からの註文が途絶え、持込原稿すら拒絶されるようになったため[14]大村彦次郎編集長の誘いで大衆文学の世界に進出。『小説現代』1966年6月号に発表した『リボンの過失』で中間小説誌デビューを果たす。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:42 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef