川上四郎
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かわかみ しろう
川上 四郎
生誕 (1889-11-16)
1889年11月16日
新潟県古志郡上組村大字摂田屋(現・長岡市摂田屋)
死没 (1983-12-30) 1983年12月30日(94歳没)
湯沢町
国籍 日本
職業 画家童画
著名な実績第2回野間挿画奨励賞受賞
久留島武彦文化賞受賞
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川上 四郎(かわかみ しろう、1889年明治22年)11月16日 - 1983年昭和58年)12月30日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の童画画家挿絵画家。牧歌的な農村風景を得意とし、素朴な画風で親しまれた。大正期の童話・童謡運動(雑誌『赤い鳥』を中心に巻き起こった童話や童謡を巡る児童文学運動。童心主義も参照)の影響を受けて、児童向けの絵画の芸術的地位を高めるため、「童画」という言葉を作り、振興に努めた。このことから、「童画の父」「日本童画の父」とも呼ばれる。
経歴

1889年明治22年)11月16日、新潟県古志郡上組村大字摂田屋(現・長岡市摂田屋)の豪農であった父・川上半四郎(屋号「川半」)と母ヨシの四男として生まれる。兄の川上漸は医師慶應義塾大学医学部教授(病理学)を務めた。写真家、自動車評論家、モータージャーナリストの川上完は親戚(兄弟の孫)。

上組村立中通尋常小学校(現・長岡市立上組小学校)高等科を卒業後、1901年(明治34年)新潟県立長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)に進み、在学中に図画教員の望月俊稜と親しくしたことで画家の道を志す。1908年(明治41年)、東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二黒田清輝和田英作長原孝太郎らに学んだ。美校の同級生には牧野虎雄河目悌二、平沢文吉らが、上級生には岡本一平池部鈞藤田嗣治田中良らがいた。1913年大正2年)3月に美校を卒業すると、同研究科へ入学。12月、友人の勧めにより榛原郡立榛原中学校(現・静岡県立榛原高等学校)で美術教師を務める。この時の教え子に三木卓の父がいる。1915年(大正4年)12月、学校内で対立が起こり、校長の後を追って退職。上京して河目と平沢の借りていた小石川白山御殿町の家で同居するようになる。

1916年(大正5年)、共同印刷の図案部主任をしていた平沢の紹介で、美校の先輩の木元平太郎が社主を務めるコドモ社[1]に入社。同社の絵画部員として『コドモ』『良友』などに挿絵を描いた。1917年(大正6年)から木元の後を継いで独逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)の美術教師を4年勤める。1918年(大正7年)4月に日本赤十字社に勤めていた田沢ミブと結婚し、7月には巣鴨に転居。絵に専念するため1919年(大正8年)にコドモ社を退社。翌1920年(大正9年)コドモ社が創刊した雑誌『童話』の主任画家として創刊号に口絵を、第2号に表紙画を描いて以後、同誌の休刊まで表紙画・挿画に作品を提供した。1922年(大正11年)からは荻窪に住み、近所には河目悌二千葉省三太田三郎、北島浅一などがいた。

『童話』(コドモ社)の他に、『赤い鳥』(赤い鳥社)、『金の船』(キンノツノ社)、『金の星』(金の星社)、『コドモノクニ』(東京社)、『少年倶楽部』『少女倶楽部』『こどもクラブ』『たのしい一年生』(講談社)、『よいこのくに』(学研)、『ひかりのくに』(昭和出版)、『キンダーブック』(フレーベル館)、『幼稚園』『良い子の友』(小学館)、『コドモアサヒ』(朝日新聞社)、『子供之友』(婦人之友社)、『幼年の友』(実業之日本社)、『コドモのテキスト』(日本放送協会)、『童話文学』(童話文学社)、『児童文学』『童話作品』(鳩居書房)、『コドモノテンチ』(子供の天地社)、『ヨイオトモダチ』(日本絵雑誌社)、『日本ノコドモ』(国民図書刊行会)、『チャイルドブック』(チャイルド本社)など各種の雑誌・児童誌に表紙画や挿画を描いている[2]川上四郎 『コドモノクニ』1926年10月号

1926年(大正15年)に童話作家協会の『日本童話選集』のために当時の童画家が一堂に会したのがきっかけとなり、翌1927年昭和2年)に初山滋武井武雄岡本帰一深沢省三村山知義清水良雄らとともに「日本童画家協会」(第1次)を結成。


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