かわかみ のぼる
川上 のぼる
本名川上 登
生年月日 (1929-12-11) 1929年12月11日
没年月日 (2013-09-07) 2013年9月7日(83歳没)
出身地京都府京都市
死没地大阪府茨木市
国籍 日本
職業腹話術師、声帯模写師
ジャンル腹話術
活動期間1950年代 - 2013年
著名な家族川上拙以(父)
川上晃(兄)
川上徹(弟)
川上じゅん(次男)
所属劇団NPO法人 日本腹話術師協会
主な作品
『ハリスクイズ』
『スターと飛び出せ歌合戦』
受賞
第25回上方お笑い大賞特別賞(1996年)
大阪市民表彰(文化功労)(1997年)
テンプレートを表示
川上 のぼる(かわかみ のぼる 、本名:川上 登(読み同じ)[1][2]、1929年12月11日 - 2013年9月7日[1])は、日本の腹話術師、声帯模写師。
寄席芸としての腹話術を確立した第一人者と評される[3]。日本腹話術師協会
名誉会長を歴任した[1]。京都市出身[1][2]。日本画家の川上拙以[1]の次男(兄は東映の美術監督やCFディレクターを務めた川上晃、弟は陶芸家の川上徹[4])。
芸事好きの父が2代目渋谷天外や2代目桂春團治らと親交があったため、幼少時から芝居小屋や寄席の楽屋に出入りする。少年時代からチャップリンやヒトラーのモノマネを得意とし、その芸の腕を買った2代目天外に「養子に欲しい」と言わしめたほどだったという[5]。
旧制中学5年の時、腹話術師エドガー・バーゲン
(英語版)の出演する映画に感激し、ぬいぐるみを用いた見よう見まねの腹話術を、学校の文化祭で披露した[2]。すると、敵国アメリカ批判などを取り入れたブラックユーモアたっぷりのネタが評判になり、各地の余興に呼ばれるうち、中村メイコの劇団に参加するようになる[2]。京都府立山城高等学校を経て、1949年に京都学芸大学(京都教育大学の前身)音楽科に入学。在学中の1951年に民放ラジオ局の朝日放送が開局すると、同局専属のタレントとしてプロデビュー[1]。大学生タレント第1号として売り出され、『ハリスクイズ』『ピアス歌のカクテルパーティー』の司会を担当。『ハリスクイズ』では、スポンサーの社名にちなんだ腹話術人形「ハリス坊や[2][3][5]」を相方にし、「イットーショー(一等賞)![2][3][5]」のフレーズが流行、お茶の間の人気者になる。同局の専属だった3代目桂米朝は「あの頃一番儲けはった」と当時を回顧している。
舞台では千日劇場や旧うめだ花月などに出演。弟子らを率いて『川上のぼるとリズムボーンズ』(1963年より『川上のぼると大阪ヤローズ』と改称)を結成し[3]、音楽ショウ、腹話術、声帯模写、コントなど、何でもありの芸で寄席を賑やかした。1987年には中国で公演した[2]。
晩年は天満天神繁昌亭に腹話術で出演。2011年頃ころから足を患い自宅で静養を続けていたが、2013年9月7日、心不全のため大阪府茨木市の自宅で死去した(83歳没)[6][7]。
妻は元宝塚歌劇団の恒月まさみ[2]。次男は弟子でもある川上じゅん[1]。
受賞歴
1996年 第25回上方お笑い大賞特別賞[3]
1997年 大阪市民表彰(文化功労)[3]
2002年 日本腹話術貢献者賞受賞
2014年 第17回上方演芸の殿堂入り[3]
弟子および座員
寺下ジョージ - のちのタイヘイ原児。
堺すすむ
大空テント - 上岡龍太郎門下に移る。
宮本きよし
千田やすし
岸わたる - 並木ひろしとタッグマッチのメンバーを経て、現在は作曲家[8]。
安丸三一 - 現在は演歌歌手。
森今日生
野田まもる
川上じゅん
小泉みつる
村田いつ子
入門を経ずリズムボーンズ、大阪ヤローズのメンバーになった人物
藤本哲宏 - のちのピンアップトリオの哲二。アコーディオンの演奏で参加。
芸風
唄う声帯模写の第一人者である。
物真似のレパートリー
花菱アチャコ
高田浩吉
ディック・ミネ
小林旭
東海林太郎
田端義夫
トニー谷
出演
ラジオ
ハリスクイズ(朝日放送)
ピアス歌のカクテルパーティー(朝日放送)
いただきます歌謡曲(近畿放送)[9]
テレビバラエティ
京阪ゼスチャーゲーム→京阪テレビカー(OTV、1956年 - 1958年)
スターと飛び出せ歌合戦(ytv制作・NTV系ネット) - トニー谷司会。