巖谷國士
[Wikipedia|▼Menu]

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典が不足しています。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2021年3月)


脚注による出典や参考文献の参照が不十分です。脚注を追加してください。(2021年3月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2021年3月)


言葉を濁した曖昧な記述になっています。(2021年3月)


百科事典的でない記述が含まれているおそれがあります。(2021年3月)
出典検索?: "巖谷國士" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL

導入部には定義、基礎データ、記事本文の要約を記してください。その他の記述で雑多になってしまっています。ガイドラインを参照して修正してください。(ノートページ)

巖谷 國士(いわや くにお ★ Kunio IWAYA/1943年1月7日 - )は、日本のフランス文学者評論家随筆家写真家小説家明治学院大学文学部名誉教授。

フランス文学者としての専門領域は、第1に、作家アンドレ・ブルトンや画家マックス・エルンストマン・レイなどを中心とする20世紀のシュルレアリスム文学美術写真映画と、その国際的・歴史的展開。それらについて多くの書を発表している。第2に、 シャルル・フーリエを中心とする18‐19世紀のユートピア思想、オカルト思想、第3に、シャルル・ペローを中心とする17‐18世紀の昔話メルヘンで、これらの方面の著書訳書も多い。

批評家、エッセイスト、講演家としての活動は、文学美術映画写真漫画メルヘンのほか、都市庭園温泉食物などの領域にわたり、さまざまな著書がある。

紀行作家、旅行写真家としては、日本全県と世界全州60数か国をめぐり、ヨーロッパ諸国、地中海、オリエント世界、アジアと日本各地についての著述や講演が多い。また庭園の紀行も、著書の一分野をなしている。それぞれに自身の撮影した写真を用い、その写真による個展も行なわれている。

近年では創作メルヘンも発表しており、専門・批評書やエッセー集のほか、展覧会の監修やカタログの編集執筆、また芸術、文化、地域などについての講演の仕事が増えている。
略歴

東京市芝区(現港区高輪に生まれる。国文学者・巖谷榮二の長男で、祖父はメルヘン作家・児童文学者の巖谷小波(季雄)、曾祖父は書家・医師・貴族院議員の巖谷一六(脩)。叔父に最高裁長官の藤林益三、文芸評論家の巖谷大四、従兄に国立第二病院長の泉周雄、英文学者で東大名誉教授の橋口稔、母方の叔父に渡米した画家・彫刻家の吉村二三生がいる。

幼少時から文学美術漫画映画建築園芸などに親しみ、東京の町々を歩く。区立中、都立高・神奈川県立高をへて、1961年に東京大学文科2類に入学し、世田谷区松原に住む。大学闘争と同人誌活動の間に扇田昭彦藤井貞和らと親交をむすび、たまたま隣家に住んだ池田満寿夫富岡多恵子とも交流。

1963年、瀧口修造と、ついで澁澤龍彦と出会い、長く交友する。それをきっかけにシュルレアリスムを生涯のテーマときめ、東京大学文学部仏語仏文学科に進学。卒業論文にアンドレ・ブルトン論を書いて同大学院へ。シュルレアリスム研究者・批評家としてデビューし、詩や美術の雑誌にエッセーを発表しはじめる。

修士論文にはシャルル・フーリエ論を書き、博士課程へ。1968年から70年にかけて、ワルドベルグ『シュルレアリスム』、ブルトン『ナジャ』、フーリエ『四運動の理論』の翻訳を刊行している。

その間に石井恭二、松山俊太郎加藤郁乎種村季弘野中ユリ谷川晃一加納光於土方巽唐十郎、金井久美子、金井美恵子らを知る。映画輸入会社の資料翻訳、非常勤講師などで自活していたが、父の死の直後の1970年、明治学院大学文学部フランス文学科の専任となる。助教授、教授を務め、2011年定年退任、名誉教授。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef