巖谷一六
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巖谷一六

巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日1834年3月17日) - 明治38年(1905年7月12日)は、近江国滋賀県)出身の書家官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はそので、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。
経歴

天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。

父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松オに、書を安見氏に学んだ。幼少より能書で聞こえ版下書をして学費を補った。安政元年(1854年)水口に戻り立的(りゅうてき)の名で藩医を勤める一方、藩の儒者で藩政改革の指導者であった中村栗園に師事し、「正義党」の一員として当時二分していた藩論を尊王へと導くに奔走した。この間多くの漢学者や勤王家と交流した。

慶応4年(明治元年・1868年)4月、徴士として新政府に出仕し、総裁局史官試補を振り出しに書記官僚の道を歩み、主に詔勅をはじめとした公文書の起草・浄書に携わった。三条実美の知遇も得て、枢密権大史、太政官大書記官、一等編修官、修史館監事、内閣大書記官、元老院議官などを歴任した。1890年(明治23年)10月20日、元老院が廃止され議官を非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ[1]1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[2]。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられた[3]

1905年(明治38年)、腎炎のため72歳で没した[4]。戒名は文簡院古梅誠修居士。その墓は京都市東山区霊山の正法寺にあり、顕彰碑「従三位巖谷君之碑」(楊守敬篆額・三島中洲撰文・日下部鳴鶴書丹 明治44年建立)が滋賀県甲賀市水口町京町の大岡寺境内に建つ。なお両親までの一族の墓所は同市水口町城内の真徳寺にある。
書家として

はやくから能書家として知られ、日下部鳴鶴中林梧竹と並ぶ明治の三筆の一人と称される。初め中沢雪城に師事して菱湖流を学んだが、明治政府出仕後は旧習を脱して、顔真卿の書を基盤とした雄渾な書風へと転じている。さらに1880年(明治13年)に来日した楊守敬から六朝書法を学び独自の書風を確立する。各体をよくし、特に行草書は瀟洒な風をなしている。とくに閑職となってからは各地に旅行し多数の揮毫作品が伝わる。また日下部鳴鶴と同様数多くの石碑の文字を書いており、現在も全国に250基以上の碑が残っている[5]

また、甲賀市水口歴史民俗資料館(甲賀市水口町水口)に「巖谷一六・小波記念室」があり、近年明治4年から12年にかけての自筆日記や、没後編纂された『一六遺稿』未収録の漢詩文稿が収蔵され、それぞれ翻刻公刊された。
栄典
位階


1874年(明治7年)2月18日 - 従五位[6]

1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[7]

1894年(明治27年)5月21日 - 正四位[8]

1905年(明治38年)7月12日 - 従三位[9]

勲章等


1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章[10]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11]

1890年(明治23年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[12]

1905年(明治38年)7月12日 - 勲二等瑞宝章[9]

師弟関係詳細は「日本の漢字書家一覧」を参照

中沢雪城

巖谷一六

辻香塢



雅号の由来

明治時代初期の役所の公休日は、「一」と「六」の付く日で、その日はを持つ日と決めて、「一六」という号をつけたと言い伝えられている。
家族

父・玄通:近江国野洲郡永原村医師村田宗徳三男。水口藩藩医。

母・利子:鷹司家諸大夫青木吉利次女。玄通死去後京都に移り、のち新待賢門院祐筆、薙髪し瑞松院と号する。



立太郎:長男、鉱山学者、東京大学理学部教授。工学博士。

弁二郎:次男、日下部鳴鶴の養子となる。東京市土木局技師長。第13代土木学会会長。工学博士。 

幽香:次女、冨森篤(関西鉄道常務)と結婚。のち水口基督教会初代宣教師、さらに同志社女学校舎監となる。

季雄:三男(筆名・小波)。 児童文学者

春生:四男、一六の家を嗣ぐ。号・獨嘯、『一六遺稿』乾坤 を刊行。


脚注[脚注の使い方]^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
^ 『官報』第2340号、明治24年4月22日。
^ 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)5頁
^ 林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「巌谷一六石碑一覧表」(勝山城博物館、2017年)
^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109
^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
^ a b 『官報』第6610号「叙任及辞令」1905年7月13日。
^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。

参考文献

『鹿深遺芳録』甲賀郡教育会編 1907年

『甲賀郡志』甲賀郡教育会編 1926年

『一六遺稿』乾坤 巖谷一六著 巖谷春生編 1912年

青山廣志「一六先生を憶ふ」(『書道』)泰東書道院出版部発行 1932年?1934年

『書道講座8 書道辞典』
二玄社発行 - 編集責任者 西川寧など - 1969年7月

書道専門誌 『』 - 芸術新聞社発行 - 1981年10月臨時増刊 近代日本の書

『明治書道史夜話』近藤高史著 芸術新聞社発行 1991年

『巌谷一六:生きた字を書く』富久和代著 私家版 2001年

『瑞松院』橋口稔著 私家版 2012年


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