巌流島
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この項目では、関門海峡内に位置する小島について説明しています。異種格闘技団体については「巌流島 (格闘技団体)」を、落語については「岸柳島」をご覧ください。

船島(巖流島)
海峡ゆめタワーから望む巌流島
所在地日本山口県
所在海域瀬戸内海
関門海峡
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度55分58秒 東経130度55分50秒 / 北緯33.93278度 東経130.93056度 / 33.93278; 130.93056座標: 北緯33度55分58秒 東経130度55分50秒 / 北緯33.93278度 東経130.93056度 / 33.93278; 130.93056
面積0.103 km²
海岸線長1.6 km
最高標高--.- m
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}船島船島 (山口県)山口県の地図を表示船島船島 (日本)日本の地図を表示
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プロジェクト 地形
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島からは、関門海峡を航行する船を間近に見ることができる島に設けられている武蔵と小次郎の銅像島へ行き来する船舶(船着場より撮影)
手前の黄色い船はチャレンジ日本海上防災が運航していた「フロンティア号」で、現在は同社自体が運航を終了し運航されていない。右奥に見える関門汽船は現在運航中。

巖流島(がんりゅうじま)は、山口県下関市関門海峡に在る島(無人島)。正式名称は船島(ふなしま)[1]。所在地は「山口県下関市大字彦島字船島648番地」[1]
概要

本州(下関市彦島)から約0.4 km関門海峡内に在る小島。島全体が平らな地形であり、標高は最高地点でも海抜10 mに満たない[2]。島の東海岸に設けられた遊歩道などからは関門海峡を行きかう大型船を間近に見ることができる。また、島の相当部分は公園として整備され人工海浜や多目的広場が設けられている。

宮本武蔵佐々木小次郎決闘巌流島の戦い)が行われたとされることで著名となっている。決闘が行われたとされる当時は豊前小倉藩領の船島であったが、小次郎が「巖流」(「岩流」とも)を名乗った[3]ことから巖流島と呼ばれるようになった。

島内の展望広場には2002年(平成14年)12月11日に除幕された小次郎像と、2003年(平成15年)4月14日に除幕された武蔵像がある[1](後述)。
歴史

武蔵と小次郎が決闘を行った日時は、『二天記』(安永5年(1776年))によると慶長17年4月13日(グレゴリオ暦では1612年5月13日)に行なわれたといわれるが、それより半世紀前に書かれた立花峯均による『丹治峯均筆記』(享保12年(1727年))には武蔵19歳のときとあり、決闘時期には諸説あって実際は不明である。

かつてはすぐ隣に岩礁があり、難所として恐れられていた。豊臣秀吉名護屋から大坂への帰路の途中でここで乗船が座礁転覆し毛利水軍によって助けられたといわれている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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