嶋田青峰
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嶋田 青峰
(しまだ せいほう)

誕生嶋田 賢平
1882年3月8日
日本 三重県答志郡的矢村
死没 (1944-05-31) 1944年5月31日(62歳没)
日本 東京府東京市牛込区
職業俳人翻訳家新聞記者教員
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学英文科
ジャンル俳句翻訳
文学活動ホトトギス派・新興俳句
代表作『青峯集』
配偶者あり
子供嶋田洋一
親族嶋田的浦
影響を受けたもの

高浜虚子

影響を与えたもの

秋元不死男金子兜太

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嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本俳人翻訳家新聞記者教員。本名は嶋田 賢平。の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる[1]。俳号の青峰は、故郷の青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する[2]

三重県答志郡[注 1]的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)出身。大正時代末期に俳句雑誌ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭鈴木花蓑らと並び、活躍した[3]が、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している[4]
来歴
生誕から学生時代

1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる[5]。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て[6]1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる[2]。途中、病気療養のため帰郷することもあった[5]が、1903年(明治36年)に早稲田大学英文科を卒業する[7]
教師から新聞記者へ

早稲田大学を卒業後、広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)で英語教師となるが、1904年(明治37年)に茨城県立竜ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)で教鞭を執り、1907年(昭和40年)に母校・早稲田大学に清国留学生講師として戻った[2]。しかし同部の規模縮小により、翌1908年(明治41年)4月に職を辞することになった[2]。失職した青峰は、当時新聞記者をしていた土肥春曙の名で仕事をしていたが、その春曙が国民新聞の吉野左衛門に青峰を紹介し、入社を頼んだ[8]。左衛門はちょうど記者を一人求めていたところだと言って青峰の採用を決め、当時小説や文芸作品を掲載する「国民文学」欄の創設準備中で、その主宰者に内定していた高浜虚子に会いに行くように言った[8]

こうして青峰は1908年(明治41年)9月20日に国民新聞社に入社、10月1日から始まった「国民文学」の編集部員として虚子の部下となった[9]。この国民新聞社には、後に俳句雑誌『土上』を主宰する篠原温亭が社会部編集主任として在籍していた[10]。左衛門と温亭も俳人であり、国民新聞社は「俳人内閣」の様相を呈していたが、1910年(昭和43年)9月に虚子は俳句雑誌『ホトトギス』の仕事に専念するために退職、左衛門と温亭は俳句界から離れていき、国民文学部は青峰一人となった[11]。こうして青峰は虚子の後を継ぎ、国民文学部長として一人で文芸欄を担当し、虚子に頼まれ『ホトトギス』に文章を寄稿することで虚子を支えるようになった[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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