嶋正利
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嶋 正利
(しま まさとし)
コンピュータ歴史博物館フェロー授賞式(2009年[2]
生誕 (1943-08-22) 1943年8月22日(80歳)
静岡県静岡市
教育東北大学理学部卒業
業績
専門分野コンピュータ科学
勤務先日本計算機販売
静岡県警察
リコー
インテル
ザイログ
会津大学
AOIテクノロジー
プロジェクトIntel 4004の開発
Intel 8080の開発
Z80の開発
Z8000の開発
受賞歴京都賞先端技術部門1997年[1]
コンピュータ歴史博物館フェロー2009[2]

嶋 正利(しま まさとし、1943年8月22日 - )は、日本マイクロプロセッサアーキテクト

会津大学教授、AOIテクノロジー株式会社代表取締役社長などを歴任した。
概要

最初期のマイクロプロセッサの一つである[注 1]Intel 4004」の設計開発者の一人である。Intel 4004のほかにも、「Intel 8080」、「Z80」、「Z8000」などのマイクロプロセッサの開発に携わっており、世界のマイクロプロセッサの歴史に多大な影響を与えた。
来歴
生い立ち

1943年、静岡県静岡市に生まれた。静岡県立静岡高等学校を卒業後、東北大学理学部化学第二学科に進学した。化学を専攻していたが、同じ研究室の先輩から「嶋、世の中には、電子で動く、電子計算機があるんだ。いろんな物質構造式を見つけ出すソフトもある」といった話を聞いていた[3]
日本計算機販売

1967年、日本計算機販売(株)(後のビジコン。以下ではビジコンと書く)に入社した[注 2]

入社後、事務ソフト部門に配属された。そういったアプリケーションの開発には興味がわかず、上司に開発部門に異動させるよう直訴し、1967年の秋に日本計算機製造(株)茨木工場に出向となり、待望の電卓開発の仕事につくことになった[4]

その後、相次いで開発されるICに対応するため、担当した電卓の開発チームが渡米してしまい、他の事情もあり嶋はいったんビジコンを離れる[5]静岡県警察に転職し科学鑑識課に勤めるも、3ヶ月後に開発の仕事ということで電卓の世界に復帰した[注 3]

そして1970年、「Intel 4004」を開発することとなる[6]
4004インテル4004

4004は、ビジコンの、プログラム制御方式の高級電卓のために必要なチップとしてインテルと共同開発したものであり、嶋はビジコンの社員として開発に関わった。インテル社史では当初、4004の設計開発者はフェデリコ・ファジンマーシャン・ホフ(テッド・ホフ)、スタンレー・メイザーであるとされ、顧客会社の出張社員である嶋の名はなかったが、1984年に設計を行った一人であると追認された。

1969年。この年、シャープがLSIを採用した電卓「QT-8D」を発表・発売し、電卓業界は急速にLSI化への道を進んでいた。日本計算器製造(1970年に「ビジコン」に社名変更。以下ビジコンと表記)は、ランダム論理制御(ワイヤードロジック)により電卓のタイプ毎に異なるカスタムLSIを使用する[注 4]のではなく、LSIは複数のタイプの電卓間で共通化し、ROMの内容を書き換えることで各タイプに対応するプログラム論理制御[注 5]の電卓を企画した。さらに、同じLSIを、似たような計算が必要な伝票発行機などに流用することも意図していた[7]

前年の1968年に、ビジコンの電卓の開発製造を担当していた電子技研工業(1971年にビジコンに合併)から開発の仕事の打診を受け、嶋は、静岡での科学鑑識の仕事から電卓の世界に戻っており[8]、1968年の秋に、LSIは未使用であるがプログラム論理制御の「ビジコン162P」を完成させ[9][10]、新方式への理解を深めていた。

1969年に入り、前述のようにLSIを使用した電卓を開発する機運が高まった。提携先としてインテルが選ばれ(日本電気の中央研究所勤務から、支配人を経て、顧問を務めた長船廣衛がロバート・ノイスへの紹介状をビジコンの社長から依頼されて書いている[11])、6月に渡米の予定となった[12]。余裕があった嶋が、システムの構成を渡米までに考えることになった。162Pの経験をLSI化に応用したような構成を考えた。渡米は6月20日発、ボーイング747の就航前年であり、旧型機[注 6]でのフライトであった。嶋らをサンフランシスコ空港まで迎えに来ていたのは、後にマイクロコンピュータの基となるアイディアを出したテッド・ホフであった[13]

1969年の初夏のサンフランシスコでおこなわれた、ビジコン側からの電卓の構想についての説明に対し、インテル側はほとんど興味を示さなかった。要求仕様についてインテルに伝えれば、LSIについては論理設計(詳細設計)から製造までインテル側で行われると思っていたビジコンの技術者は、日々戸惑いを増していたが、これには大きな誤解があった。実は本契約はまだ交わされておらず[注 7]、インテル側は単にコンサルティングとしてつきあっている、という状態だったのだ、と後になってわかったという[14]。この意識のズレは後々も姿を見せる。

この時、ビジコン側(嶋)が提案したのは、次のような構成であった。電卓全体の方式としてはプログラム論理制御とし、電卓の用途に応じてメモリに書き込むプログラムを替え、様々なタイプの電卓に対応させる。周辺機器などの制御にはそれぞれ専用のLSIを用意し、プリンタの制御はランダム論理制御としていた[15]。新規設計のLSIを10種類前後[注 8]使用する。この提案には、数の問題ばかりでなく、LSIのパッケージングの問題もあった。この構成では、40ピンなどの比較的大きなパッケージを必要としたが、インテル側にはそのようなパッケージの用意がなく、当時メモリなどに使っていた16乃至18ピンのパッケージを利用したがっていたのだが、ビジコンにはそれは知らされていなかった[16]。テッド・ホフは、このビジコン案に対し、そのプログラム論理制御という点に興味を示していた[17]

8月21日、インテル社からビジコン社に送られた手紙には、ビジコンが望む規模と価格でのLSIの生産は不可能、と読める内容が記され、開発はほとんど暗礁に乗り上げていた[18]


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