嶋尾康史
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嶋尾 康史基本情報
国籍
日本
出身地兵庫県姫路市
生年月日 (1968-05-06) 1968年5月6日(56歳)
身長
体重188 cm
89 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1986年 ドラフト2位
初出場1988年6月21日
最終出場1992年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


東洋大学附属姫路高等学校

阪神タイガース (1987 - 1996)

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嶋尾 康史(しまお やすひと、1968年5月6日 - )は、兵庫県姫路市[1]出身の元プロ野球選手投手、右投右打)、俳優演出家。元プロ野球選手(捕手)の的山哲也は、同郷(姫路市出身)の親戚に当たる[2]。ACT21所属。

プロ野球選手としては、1987年から1996年まで、NPB阪神タイガースに在籍。1989年から1991年までは、本名と同じ読み方ながら、「嶋尾 慶一」という登録名を用いていた。現役を引退してからは、「ACT-21」(大阪市内に本社を置くマネジメント事務所)を拠点にメディアや芸能界で活動している。
来歴・人物
野球選手時代

東洋大学附属姫路高等学校3年時の1986年に、夏の第68回全国高等学校野球選手権本大会へ兵庫代表で出場すると、長谷川滋利とのダブルエースで活躍[1]。チームの準々決勝進出に貢献した[注 1]その年のNPBドラフト会議で、地元球団の阪神タイガースから2位で指名[1]。推定年俸360万円という条件で入団した。入団当初の背番号は52。

阪神への入団後は、背番号を47に変更した1988年から一軍公式戦で登板。その年に初勝利を挙げたものの、1991年までは一軍と二軍を往復する生活が続いた。バルセロナオリンピックが開かれた1992年には、3月にヨーロッパで開かれる予定だったキューバ代表の壮行試合で、対戦チームのメンバー[注 2]に選ばれていた。この試合はキューバ代表側の事情で立ち消えになった[4]が、NPBのレギュラーシーズンでは、一軍公式戦で自己最多の25試合に登板。1勝2敗1セーブ、防御率2.39という成績で、チームを7シーズンぶりのセントラル・リーグ優勝寸前にまで導くことに貢献した(最終順位は2位)。

1993年の春季キャンプ中に右肘を痛めたこと[5]を境に、一軍のマウンドから遠ざかった。

1994年に日本国内でトミー・ジョン手術を受けた[5]

1995年春季キャンプ直前の1月17日に、当時住んでいた神戸市内の自宅で阪神・淡路大震災へ遭遇した。当初は「地震の影響で割れた窓ガラスの破片が左肩に突き刺さったばかりか、その傷が背中にまで達したため、傷口の長さは15cmに及んだ」と報じられていた[6]が、本人は後にこの報道を完全に否定。「震災に遭遇はしたものの、実際にはかすり傷すら負わなかった。球団との連絡が取れないまま、発災の翌日に喫茶店で朝食を取りながらスポーツ紙を読んでいたところ、『嶋尾、行方不明』」との記事が出ていたのでかなり焦った」と語っている[5]

1995年にはアメリカフランク・ジョーブの執刀によるトミー・ジョン手術も受けたが、完治しないままウエスタン・リーグの公式戦へ登板。その後も故障が相次いだ影響で、一軍へ復帰できないまま、1996年のシーズン終了後に球団から戦力外通告を受けた。

戦力外通告の直後は他球団での現役続行を模索し、近鉄バファローズヤクルトスワローズや、台湾プロ野球(CPBL)の球団で入団テストを立て続けに受けた。もっとも、いずれの球団とも契約に至らなかったため、鍼灸師整体師への転身を視野に現役を引退した[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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