嵯峨天皇
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嵯峨天皇
嵯峨天皇像(御物
第52代天皇
在位期間
809年5月18日 - 823年5月29日
大同4年4月1日 - 弘仁14年4月16日
即位礼809年5月30日(大同4年4月13日
大嘗祭810年12月19日(弘仁元年11月19日
元号大同
弘仁
時代平安時代
先代平城天皇
次代淳和天皇

誕生786年10月3日延暦5年9月7日
崩御842年8月24日承和9年7月15日
嵯峨院
大喪儀842年8月26日(承和9年7月17日
陵所嵯峨山上陵
追号嵯峨天皇
諱神野
元服799年3月17日(延暦18年2月7日
父親桓武天皇
母親藤原乙牟漏
皇后橘嘉智子
子女仁明天皇
源信
源常
源弘
源定
源融
正子内親王
有智子内親王
源潔姫 他多数(#后妃・皇子女
皇居大内裏
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嵯峨天皇(さがてんのう、786年10月3日延暦5年9月7日〉- 842年8月24日承和9年7月15日〉)は、日本の第52代天皇(在位:809年5月18日大同4年4月1日〉- 823年5月29日弘仁14年4月16日〉)。 は神野(賀美能・かみの)。嵯峨源氏の祖に当たる。

桓武天皇の第五皇子(諸説あり)。母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后橘嘉智子(檀林皇后)。嵯峨天皇宸翰『哭澄上人詩』部分(最澄の死を悼む詩)釈文:(香煙は)像爐に(続く) 蒼生橋梁に少なく 緇侶(しりょ)律儀疎(うと)し 法軆何ぞ久しく住(とど)まらん 塵心傷みて餘り有り
略歴

延暦9年(790年)閏3月に、数え年5歳で、生母の藤原乙牟漏を亡くす[1][2]

延暦11年(791年)、嵯峨天皇の諱が乳母である賀美能宿禰の出身地の神野郡より賀美能(神野)親王と名付けられる[3]

延暦18年(799年)2月に元服。聡明で読書を好み、君主としての器量を持ち、父の桓武天皇からも愛された[4][5]

延暦22年(803年)に三品中務卿となる。

延暦25年(806年大同元年)5月9日に弾正尹となったが、同月19日に兄の平城天皇即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父の桓武天皇の意向が働いたとも云われている[6]

ところが、『扶桑略記』によれば、大同元年11月頃[注釈 1]に平城天皇が神野親王の皇太弟廃位を画策し、これを知った東宮傅の藤原冬嗣が親王に告げ、それを知った親王が父が眠る柏原山陵を遙拝したところ、平安京中を烟気が覆って昼なお暗い状態になった。これに驚いた天皇が占いを命じたところ、柏原山陵の祟りという結果が出たために、これを恐れた天皇が企てを断念したという。この話は『水鏡』・『愚管抄』・『東宝記』にも掲載されている。この逸話について、西本昌弘は平城天皇が桓武天皇の遺命(神野親王の皇太弟擁立)に不満を抱き、実際に皇太弟の廃位と自らの皇子の立太子を画策していたのではないかとしている(なお、西本は同年10月に桓武天皇陵が改葬されたとする説があるのと関連して、実際の計画は改葬の直前であったのではないかとしている)[7]。一方、春名宏昭は桓武天皇の遺命の存在を否定して平城天皇自身が自らの皇子の幼さから皇統安定のために皇太弟を立てたとする見解から、この話を創作ではないかとしている[8]

大同4年(809年)4月1日、平城天皇の譲位を受け、即位[9]。平城天皇の子で甥にあたる高岳親王を皇太子とした[4]

弘仁元年(810年)に平城上皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、今度は異母弟の大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟に立てた[9]。これが承和の変の遠因となる。なお、平城上皇はこれ以後も太上天皇の尊号と礼遇を受けている[4][6]

以後、約40年間にわたり平穏な治世を送り、宮廷の文化が盛んな時期を過ごす。

同年(810年)に、蔵人所を設置し、巨勢野足藤原冬嗣蔵人頭に任命[10]。弘仁3年(812年)に右大臣となった藤原園人を中心とする官僚に政務を任せ、詩宴を精力的に開催するなど、文治的事業に専念する[11]。弘仁9年(818年)には、平安京の十二門を唐風の名に改め[12]、宮中の儀式も唐制に改めた[9]

弘仁5年(814年)5月、の3人の皇子を含めた母親の身位の低い子供たちが源朝臣姓を賜与されて臣籍降下している[13]。弘仁6年(815年)7月以前にに立てられていた異母妹高津内親王を廃して(時期は不明)、同月に橘嘉智子を皇后に立てている。

弘仁6年(815年)4月、近江国志賀郡への行幸中に梵釈寺で輿を停めた際、唐から帰国した僧である永忠が自ら点てた茶を飲んだとされる[9][14]

弘仁9年(818年)、弘仁格を発布。この頃、農業生産が極度の不振[注釈 2]にあり、財政難は深刻であった。その対策として、墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田勅旨田の設置などが行われた。

弘仁14年(823年)には、空海東寺を賜り、その前年には、最澄の悲願であった大乗戒壇の設立を認めている。

弘仁14年(823年)、大伴親王(淳和天皇)に譲位太上天皇となり、実子の正良親王(後の仁明天皇)を皇太子とした。


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