あらし かんじゅうろう
嵐 寛壽郎
本名高橋 照一
たかはし てるいち
別名義嵐 徳太郎
あらし とくたろう
嵐 和歌太夫
あらし わかだゆう
嵐 長三郎
あらし ながさぶろう
生年月日 (1902-12-08) 1902年12月8日
没年月日 (1980-10-21) 1980年10月21日(77歳没)
出生地 日本・京都府京都市木屋町
職業俳優
ジャンル歌舞伎・映画・テレビドラマ
活動期間1919年 - 1980年
活動内容1921年:歌舞伎界に入る
1927年:マキノ・プロダクションに入社、映画デビュー
1928年:嵐寛寿郎プロダクション(第1次)設立
1929年:東亜キネマに入社
1931年:嵐寛寿郎プロダクション(第2次)設立
1938年:日活に入社
1942年:大映に移籍
1956年:新東宝に入社
1961年:フリーとなる
著名な家族義兄:六代目嵐徳三郎
従妹:森光子
甥:山本竜二
主な作品
『鞍馬天狗』シリーズ
『右門捕物帖』シリーズ
『明治天皇と日露大戦争』
『網走番外地』シリーズ
『男はつらいよ 寅次郎と殿様』
受賞
日本アカデミー賞
優秀助演男優賞
1979年 『オレンジロード急行』『ダイナマイトどんどん』
その他の賞
毎日映画コンクール
男優助演賞
1968年 『神々の深き欲望』
牧野省三賞
1974年
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嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高橋 照一[注釈 1](たかはし てるいち)、1902年〈明治35年〉12月8日 - 1980年〈昭和55年〉10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。
戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[1]。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。晩年は東映任侠映画で助演し、テレビドラマでも活躍した。
祖父は文楽の人形遣いの初代桐竹紋十郎。叔父は俳優の六代目嵐徳三郎[注釈 2]。従妹は女優の森光子で、甥にAV男優の山本竜二がいる。自宅は嵐山にあった。 1902年(明治35年)12月8日、京都市木屋町三条下ルに生まれる。「無芸だった」という父親が奉公していた手前、縄手に住む祖母(夫が桐竹紋十郎)の経営する料理旅館「葉村屋」に預けられた。 満十歳の時、母親の「芸事より固い商売を」との方針で、弥栄尋常小学校を五年で中退、七條大宮の衿屋に丁稚奉公させられる。「睡眠5時間、おかずは沢庵二切れのみ、月給一円、休みは月に一度だけ」という殺人的重労働に「まるで留置場やった」と述懐している。 丁稚時代、月に一度の休日に活動写真を観に行くことだけが愉しみで、尾上松之助の忍術トリック映画や、ニコニコ大会(バスター・キートン、チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドの混載興行)に熱中していた。のちに、チャップリンの「キッド」が鞍馬天狗と杉作とのからみに、キートンの無表情さがむっつり右門の演技に、それぞれ大きな影響になったと述懐している。 1919年(大正8年)、手代から番頭に出世しようという17歳のときに、主人が死去。一から丁稚のやり直しは御免と、祖母に頼んで愛知県岡崎市で巡業中の片岡松之助の一座に加入。「食事は卵に味噌汁付き、給金五円」の待遇に「丁稚奉公のツキイチとは雲泥の差やった」と述べている。
来歴
歌舞伎界へ