嵐が丘
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この項目では、エミリー・ブロンテの小説について説明しています。その他の用法については「嵐が丘 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

嵐が丘
Wuthering Heights
初版のタイトルページ
著者エミリー・ブロンテ
発行日1847年12月
ジャンル悲劇ゴシック小説
イギリス
言語英語
形態文学作品
前作ジーン・リース
コード0-486-29256-8

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『嵐が丘』(あらしがおか、原題:Wuthering Heights )は、エミリー・ブロンテの生涯唯一の小説[1]1847年[1]

英語圏では「世界の三大悲劇」や「世界の十大小説のひとつ」などと評されている[2]
概要『嵐が丘』のモデルになったハワースの荒野にある「トップ・ウィゼンズ」の廃墟「トップ・ウィゼンズ」から眺める荒野

「最後のロマン主義作家」とされるブロンテ姉妹のひとりエミリー・ブロンテが29歳の時に発表したデビュー作である[3][4]。姉妹が暮らしていたイングランドヨークシャーハワースを舞台にした長編小説で、侘しく厳しい荒野(ヒースムーア)の自然を背景に、荒々しくかつ背徳的な物語が展開する[5][6][7]

作者のエミリーは牧師の娘で、若い頃から音楽教師をしており、この作品の着想は20歳の頃に得たとされている[4]。当時は女性作家に対する評価が低く、姉妹は男とも女ともとれるような筆名を用い、1847年にエミリーは「エリス・ベル」名義で『嵐が丘』を、姉のシャーロットは「カラー・ベル」名義で『ジェーン・エア』を出版した[5][4]。姉の『ジェーン・エア』はベストセラーになって「作者は男か、女か」が世間の話題になったのに対し、『嵐が丘』は酷評された[5][4][2]。ただし、世間の反応は出版当初から「異様な物語に大きな衝撃を受け、当惑する一方で、その力強さや独創性は認められていた」とする評価もある[8]

エミリーは出版の翌年に病没しており、後に姉のシャーロットが『嵐が丘』の2版で作者が妹のエミリーだったことを明かした[5]

20世紀に入った頃には高く評価されるようになっており、日本では1920年代に東京帝国大学英文学を教えたエドマンド・ブランデンが、『リア王』、『白鯨』、『嵐が丘』が「英米文学の三大悲劇」と教えたことから広まったという[9]。当時文部省の研究員としてイギリスに派遣された浜林生之助は、帰国後の1930年(昭和5年)に出版した『英米文学巡礼』のなかで、その頃既に「ブロンテ・カンツリ」と呼ばれるようになっていたハワース一帯を紹介している[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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