?紹
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?紹

? 紹(けい しょう、嘉平5年(253年)- 永安元年7月24日304年9月9日))は、中国西晋の政治家。は延祖。父は竹林の七賢の一人であり、の中散大夫であった?康。子は??。?国?県(現在の安徽省淮北市?渓県)の人。『晋書』の忠義伝の筆頭に記載されている。
生涯
若き日

魏王朝の重臣である?康の嫡男として生まれた。

景元4年(263年)、父の?康が鍾会の讒言により処刑された。父の罪により、当時10歳であった?紹は自宅で謹慎して過ごす事を余儀なくされたが、彼は甚だ恭謹に母へ孝行を尽くした事で評判となったという。

泰始10年(274年)7月、吏部尚書(官吏を推挙する役職)の山濤は、かつて?康より?紹の事を託されていた事から、武帝へ上表して「『康誥』によりますと、父子の罪は互いに及ばないといいます。?紹の賢明さは郤缺にも匹敵します。彼を招聘して秘書郎とする事を請います」と述べ、?紹の罪を許して秘書郎に取り立てる様に訴えた。武帝はこれに「卿の言うような人物であるなら、丞(秘書丞)の職務にも堪えうるであろう。どうして郎(秘書郎)などに出来ようか」と述べ、秘書郎より高位である秘書丞に任じた。当初、?紹はこの任官を辞退しようとしたが、山濤は?紹の家を訪れて自ら説得に当たったので、遂にこれを受け入れて仕官に応じた。

やがて汝陰郡太守へと昇進し、さらに豫章郡内史に移るよう命じられたが、母が亡くなった事により辞退した。服喪期間が明けると、改めて徐州刺史に任じられた。当時の都督である石崇は驕暴な性格であったが、?紹は道理をもって彼の振る舞いを諭したので、石崇より甚だ親敬された。その後、長子の??を亡くした事により職を辞した。
内乱に翻弄される

元康元年(291年)、復職して給事黄門侍郎に任じられた。当時、恵帝外戚である賈謐は皇帝を凌ぐ程の権勢を握っており、朝臣達はみな賈謐に媚び諂っていた。?紹もまた彼より誘いを受けたが、?紹はこれを拒んで応じなかった。

永康元年(300年)4月、趙王司馬倫が政変を起こし、賈謐を始めとした賈氏一派を誅殺して政権を掌握した。当時、?紹は賈氏政権の下で職務に就いていたが、彼自身は賈氏に擦り寄っていなかった事から誅殺を免れた。司馬倫政権においては弋陽子爵に封じられ、散騎常侍に転任となり、さらに国子博士を兼務した。

永康2年(301年)1月、司馬倫が恵帝を廃して帝位を簒奪すると、?紹は侍中に任じられた。4月、司馬倫が左衛将軍王輿らに誅殺されて恵帝が復位を果たすと、?紹は引き続き侍中を任された。

司馬倫の死後、斉王司馬冏が朝権を掌握して輔政の任に就いたが、彼は奢侈な生活を送って邸宅や館舎を大いに建築し、民衆を大いに失望させた。永寧2年(302年)11月、?紹は腐敗する朝政を憂え、上書[1]して司馬倫と同じ過ちを繰り返さないよう恵帝を戒めた。次いで司馬冏にも書を送り[2]、その振る舞いを諫めた。司馬冏はこの進言に謙虚な態度で報いたが、結局振る舞いを改める事は無かった。

同年(太安元年)12月、?紹は朝廷での職務を免じられると、司馬冏により大司馬府に招き入れられ(司馬冏は大司馬の地位にあった)、左司馬に任じられた。だが、その10日後には長沙王司馬乂が政変を起こし、交戦の末に司馬冏を捕らえて誅殺した。政変が起こった時、異変を察知した?紹は逃げまどいながら宮殿へ向かった。東閤の下にいた弩兵は?紹を発見すると彼へ向けて射掛けたが、殿中の将兵である蕭隆は?紹の立派な姿を見てただものではないと考え、彼の前に進み出て射撃を止めさせたので、?紹は禍を免れる事が出来たという。政変がひと段落した後、?陽にある旧宅へと帰還した。

太安2年(303年)、御史中丞として招聘を受けたがこれを受けず、再び侍中に復職した。同年7月、河間王司馬?・成都王司馬穎が司馬乂討伐を掲げて挙兵し、洛陽へと進撃した。司馬?らの大軍が城東まで至ると、司馬乂は「今日の西討において、誰を都督とすべきか」と諸将に問うた。軍中の将士はみな「願わくば?侍中(?紹)を軍の前鋒として力を尽くしていただければ、我らは死してもなお生となりましょう」と答えた。司馬乂はこれに同意し、?紹は使持節・平西将軍に任じられた。

永安元年(304年)1月、司馬乂軍は敵軍に対して連戦連勝であったが、東海王司馬越の裏切りにより洛陽は陥落してしまった。司馬乂が司馬?配下の将軍張方により処刑されると、?紹もまた司馬乂に従っていた事から捕縛されたが、処罰については一旦保留とされ侍中に復帰した。その後は司馬穎が朝廷の第一人者となり、?紹を含めた公王以下の百官はみな?に赴き、今回の一件について司馬穎に謝罪する事を強いられた(司馬穎は?に留まったまま洛陽を間接統治していた)。司馬穎は司馬乂に与した罪で?紹らをみな解任し、庶人に落とした。
忠義に殉じる

7月、東海王司馬越は朝政を牛耳っていた司馬穎の振る舞いに憤り、右衛将軍陳?や司馬乂の旧将である上官巳らと共に司馬穎に反旗を翻した。この時、?紹は司馬越らにより召喚され、その爵位を以前通りに戻された。司馬越は司馬穎誅殺を掲げ、恵帝を伴った状態で司馬穎の本拠地である?へ侵攻を開始すると、?紹は天子蒙塵(皇帝が変事により都から出る事)の時であるとして、詔を承って行宮(皇帝が出征する際に設ける仮の宮殿)へと馳せ参じた。同じく侍中であった秦準は「今この命令に従えば、その身の安否は測り難いぞ。卿は佳馬でも持っているのかね(優れた馬がいれば、いざという時に逃亡を図れる為)」と述べ、暗に皇帝軍には従わない事を勧めたが、?紹は顔つきを正して「大駕(天子)が親征を行い、正義をもって逆賊を討とうしているのだ。必ずや戦わずして勝利を収めるだろう。万が一皇輿(皇帝の乗る輿)に危機が訪れようとも、臣は忠節を果たすのみである。どうして駿馬(優れた馬)など必要となるのか!」と言い放った。これを聞いて嘆息しない者はいなかった。

皇帝軍は軍を進めて蕩陰を通過したが、この時に司馬穎配下の石超により本営を奇襲され、大敗を喫した。百官や侍御は恐れ慄いて四散してしまい、誰も恵帝を守ろうとする者はいなかった。ただ?紹だけは礼服姿で儼然としたまま、馬を下りて乗輿に乗り込むと、身を挺して恵帝を庇った。司馬穎の兵が襲い掛かると、?紹は乗輿から引きずり出された。すると、恵帝は「忠臣である。殺してはならん!」と叫んだが、兵士たちは「太弟(司馬穎)の命では、犯してはならぬのは、陛下ただ一人といわれております」と述べ、その命を無視した。雨の如く降り注ぐ矢により、?紹は遂に恵帝のすぐ側で射殺されてしまった。その血飛沫は恵帝の服にも飛び散り、恵帝はその死を目の当たりにして深く哀しみ嘆いたという。

その後、恵帝が?に連行されると、彼の側近は血の付いた服を洗おうとしたが、恵帝は「これは?侍中(?紹)の血である。拭き取ってはならん!」と声を荒げたという。
死後

恵帝が長安に連れ去られた後、司馬?は敵でありながらも?紹の忠節を評価し、上表して?紹に司空を追贈して公に進爵させようとした。だが、実行される前に司馬?は敗れて恵帝が奪還されたので、結局この措置は有耶無耶となった。


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