?康
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琴を弾く?康(明時代画).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

? 康(けい こう、黄初4年(223年)? - 景元3年(262年)?[1])は、中国三国時代文人は叔夜。豫州?国?県(現在の安徽省淮北市?渓県)の人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。父は?昭。兄は?喜。子は?紹・女子一人。

幼少の頃孤児となり、魏の年末の政治的に不安な時代を生きたが、自由奔放な性格と、魏の公主を妻とした複雑な立場から、名利を諦め、琴を弾き詩を詠い、山沢に遊んでは帰るのを忘れたという。従って老荘を好み、官は中散大夫に至ったが、山濤から役を譲られようとした時、絶交書を送った[2]
経歴

曹操の曾孫娘の長楽亭主(曹林の孫娘)を妻とし[3]、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、?中散とも呼ばれる。

非凡な才能と風采を持ち、日頃から妄りに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり、鍛鉄をしたりするなどの行動を通して、老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と、清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めなかった。友人の山濤が自分の後任に?康を吏部郎に推薦した時には、「与山巨源絶交書」(『文選』所収)と書いて彼との絶交を申し渡した上で、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前、子の?紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものであった。

?康の親友であった呂安は、兄の呂巽が自分の妻と私通した事で諍いを起こし、兄を告発しようとした。ところが、身の危険を感じた呂巽によって先に親不孝の罪で訴えられた[4]。この時、?康は呂安を弁護しようとした。しかし鍾会は以前から?康に怨恨があったため、この機会に?康と呂安の言動を風俗を乱す行ないだとして、司馬昭に讒言した。このため、山濤の吏部郎への推薦を断った事と、呂安を弁護する姿勢が罪状に挙げられ、?康と呂安は死罪となった[5]

当時、汲郡に孫登という道士がいた。?康は山に薬草を採りに行った時に知り合い、彼の元に3年通っていた。しかし、孫登が一言も口を利こうとしなかったため、?康は別れ際に「先生[6]、まだ口を利いてはいただけないのでしょうか」と尋ねた。そのため孫登は、初めて口を開き「あなたは多才だが見識が乏しい。今の世の中では難を免れるのは難しいぞ」と言った[7]。結局、?康は死刑という難を免れる事ができなかった。

?康は「(きん)」を演奏する事を好んでおり、ある時に見知らぬ人物から「広陵散」と呼ばれる琴の曲を学び得意としていたが、誰にもそれを教えなかった。刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散、今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという[8]。「声無哀楽論」・「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していた。

著作は他に「養生論」・「釈私論」があり、詩は「幽憤詩」・「贈秀才入軍五首」などの四言詩に優れていた。
出典

房玄齢等『晋書』巻49 ?康伝

脚注^ 『晋書』?康伝によると享年40。『資治通鑑』では没年を景元3年とし、ちくま学芸文庫三国志』の年表もそれに準ずるが、没年については諸説ある。
^ 藤野岩友・大矢根文次郎・西岡弘・佐藤一郎・浅野通有編 編『中国文学小事典』高文堂出版社、1982年、97頁。 
^ 『三国志』魏書 曹林伝注『?世譜』
^文選』所収の向秀「思旧賦」李善注が引用する干宝『晋書』より。
^ なお『世説新語』簡傲篇によると、?康の留守中に呂安が訪問した際、?康の兄の?喜(?紹の後を継いだ?翰の曾祖父)がいたので、呂安は門戸の上に「鳳」と記して立ち去った。?喜はその意味を知らずに喜んだが、実はこれは「凡鳥(「鳳」を二字に分解した)」を意味していたという逸話がある。
^ 日本語の「先生」とは異なり、一般的な敬称。ここでは無位無官の相手への敬称として使っている。
^ 『三国志』魏書 王粲伝付 ?康伝注『魏氏春秋』、及び『晋書』孫登伝。
^ 『世説新語』雅量篇より。
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。?康の作品










陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷

(魏書)

巻1 武帝紀

太祖武皇帝曹操

巻2 文帝紀

文皇帝曹丕

巻3 明帝紀

明皇帝曹叡

巻4 三少帝紀

斉王曹芳

高貴郷公曹髦

陳留王曹奐

巻5 后妃伝

武宣卞皇后

文昭甄皇后

文徳郭皇后

明悼毛皇后

明元郭皇后

巻6 董二袁劉伝

董卓

李?




袁紹

袁譚

袁尚


袁術

劉表

巻7 呂布臧洪伝

呂布

張?

陳登


臧洪

陳容


巻8 二公孫陶四張伝

公孫?

公孫度

公孫康

公孫恭

公孫淵


陶謙

張楊

張燕

張?

張魯

巻9 諸夏侯曹伝

夏侯惇

韓浩

史渙


夏侯淵

曹仁

曹純


曹洪

曹休

曹肇


曹真

曹爽

曹羲

曹訓

何晏

ケ?

丁謐

畢軌

李勝

桓範


夏侯尚

夏侯玄


巻10 荀ケ荀攸賈?伝

荀ケ

荀ツ

荀?(中国語版)

荀?(中国語版)


荀攸

賈?

巻11 袁張涼国田王?管伝

袁渙

張範

張承


涼茂

国淵


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