崎津集落
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}本来の表記は「ア津集落」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。この項目に含まれる文字「ア」は、オペレーティングシステムブラウザなどの環境により表示が異なります。この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。崎津集落

ア津集落(さきつしゅうらく)は、熊本県天草市河浦町ア津一帯の総称で、羊角湾に面した潜伏キリシタンの里として知られる。

文化財保護法に基づき「天草市ア津・今富の文化的景観」の名称で重要文化的景観として選定されているほか、2022年度にはグッドデザイン賞受賞[1][2]

2016年世界遺産登録審査予定であった長崎の教会群とキリスト教関連遺産の構成資産であったが推薦は一時取り下げられ、改めて2018年の審査対象となり、6月30日長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産として世界遺産登録が決定した[3][4]
歴史

天草下島南部は室町時代より豪族の天草氏が領有し、1569年永禄12年)に天草鎮尚が南蛮貿易目的でルイス・デ・アルメイダを招き布教が行われた。自身も1571年、洗礼を受けドン・ミゲルと称して、領内には教会も建てられた。[5]ア津は一般的ルートではないが遣唐使船が寄港するなど古くからの良港で、ルイス・フロイスの『日本史』には「Saxinoccu(サキノツ)」の記述があり、西洋にも知られていた。その後、キリシタン大名小西行長が天草を含む肥後南部を支配することになり、豊臣秀吉バテレン追放令後も宣教師を庇護した。

江戸時代になり1613年慶長17年)の禁教令によりキリシタンは潜伏化し、1621年元和7年)にはコンフラリア(ポルトガル語版)[注 1]が組織された。1629年寛永6年)には アントニオ・ジャノネ神父がア津で潜伏布教を行ったが、1637年(寛永14年)の島原・天草の乱によって天草は荒廃。だが、ア津を含む下天草の人々は参戦しなかったことで、処罰されずに済んだ(ア津は外界と隔絶していたため乱を知らなかった)。乱後に天草は天領となり、代官鈴木重成が定浦制度を設け、次代の重辰1659年万治2年)に定浦を17ヶ所に増やした際にア津も指定されたことで漁業キビナゴ漁)が盛んになるきっかけとなった[注 2][注 3]。定浦制度とは御用(幕府公用)船と荷子(水夫)を調達させる代わりに漁業権を与え、運上の安定を図るもの。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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