崇神天皇
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崇神天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「崇神天皇」
第10代天皇
在位期間
崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日
時代伝承の時代古墳時代
先代開化天皇
次代垂仁天皇

誕生開化天皇9年または10年
崩御崇神天皇68年 120歳
陵所山邊道勾岡上陵
漢風諡号崇神天皇
和風諡号御間城入彦五十瓊殖天皇
諱御間城尊
別称御肇國天皇・御眞木入日子印恵命・所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇
父親開化天皇
母親伊香色謎命
皇后御間城姫孝元天皇皇孫)
子女垂仁天皇・彦五十狭茅命・国方姫命千千衝倭姫命倭彦命・五十日鶴彦命・豊城入彦命豊鍬入姫命大入杵命・八坂入彦命・渟名城入姫命・十市瓊入姫命
皇居磯城瑞籬宮
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崇神天皇(すじんてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:崇神󠄀天皇、開化天皇9年または10年[注 1] - 崇神天皇68年12月5日[1])は、日本の第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。『日本書紀』での名は、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)。実在した可能性のある最初の天皇[2]とする説があり、考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、近年発掘の進む纏向遺跡との関係からその存在に注目が高まっている天皇の一人である。
略歴

稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。異母兄に彦湯産隅命(迦具夜比売命の祖)。異父兄に彦太忍信命磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王神功皇后の祖)。『古事記』は同母妹として后と同名の御真津比売命を記す。19歳で皇太子となる。

父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、活目尊(後の垂仁天皇)や倭彦命らを得た。即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神などの神々を祀ることで治めた。即位10年、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。即位65年、任那から朝貢があった。即位68年、崩御。


御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』

御間城天皇(みまきのすめらみこと) - 『日本書紀』

御間城尊(みまきのみこと) - 『日本書紀』

御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』

御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』

所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』 

美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『
常陸国風土記

漢風諡号である「崇神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
事績
疫病と祭祀

即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。

即位4年、詔を発して万世一系を謳った。

即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた[3][注 2]。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬[注 3]に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。

即位7年、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して、神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占った。すると倭迹迹日百襲姫命大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇は沐浴斎戒して宮殿を中を清めて、「願わくば夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げた。続いて倭迹速神浅茅原目妙姫大水口宿禰穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市(いちしのながおち)にせよという神託を受けた。そこで天皇はおじの伊香色雄に命じて物部の八十平瓮(やそひらか)を作らせ、大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子を探し出して大物主神を祭る神主とした。三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。また市磯長尾市を倭大国魂神を祭る神主とし、八十万(やそよろず)の群神を祭った。すると疫病は終息して五穀豊穣となった。

即位8年、活日(いくひ)という者を大神の掌酒(さかびと)とした。そして活日が神酒を捧げて歌を詠み、続けて諸大夫(役人)と天皇もそれぞれ歌を詠んだ。

此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)

即位9年、天皇は神が夢に現れたと称し大和国の東の隅に座す墨坂神を赤い盾と矛、西の隅に座す大坂神を黒い(『古事記』では墨色)盾と矛をもって祀った[注 4]。『古事記』ではこれに続いて全ての坂の神や瀬の神に、文字通り隅から隅まで幣帛を奉って疫病が終息したとしている。
四道将軍

即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命北陸道に、武渟川別東海道に、吉備津彦西道に、丹波道主命丹波山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させることとなった。しかし北陸へ出発した大彦命は和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)で現れた不思議な童女から不吉な歌を聴くことになる。

御真木入日子はや 己が命を 殺せむと 竊まく知らに 姫遊すも
大城戸より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも

引き返して報告したところ、倭迹迹日百襲姫命がさらに詳細な予言を行った。その結果、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)が謀反を起こそうとしていることがわかった。叛乱が露見した武埴安彦は山背から、妻の吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の武埴安彦勢には大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせて打ち破った。叛乱終息後に四道将軍は再出発し、翌年に帰還して戎夷を従わせたことを報告した。また北陸道を進んだ大彦命と東海道を進んだ武渟川別の親子が合流した土地を相津(会津)という。
御肇国天皇

即位12年、戸口を調査して初めて課役を課した。この偉業をもって御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられている。『古事記』には天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。

即位17年、献上品を運び込むための船を作らせた。

即位48年、豊城命活目尊を呼んで夢占いを行い弟の活目尊を皇太子とした。兄の豊城命には東国を治めさせた。

即位62年、灌漑事業を行って依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などを開き大いに農業の便を図ったと伝えられる。

即位65年、任那が使者として蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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