崇神天皇
『大日本帝紀要略』(1894年)
第10代天皇
在位期間
崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日
時代古墳時代
先代開化天皇(欠史八代)
次代垂仁天皇
誕生開化天皇10年
崩御崇神天皇68年 120歳
陵所山邊道勾岡上陵
別称御間城入彦五十瓊殖天皇・御肇國天皇・御眞木入日子印恵命・所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇
父親開化天皇
母親伊香色謎命
皇后御間城姫
子女垂仁天皇・彦五十狭茅命
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は日本の第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。実在した可能性のある最初の天皇である[1]。 開化天皇の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)。19才で皇太子となる。 父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、活目命(後の垂仁天皇)や倭彦命らを得た。即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神を祀ることで治めた。即位10年、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。即位65年、任那から朝貢があった。即位68年、崩御。 3世紀後半ごろに実在した大王と推定されるが、定かではない。 漢風諡号である「崇神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。 即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。即位4年、詔を発して万世一系を謳った。 即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた[2][注釈 1]。
目次
1 略歴
2 名
3 事績
3.1 疫病と祭祀
3.2 四道将軍
3.3 御肇国天皇
4 系譜
4.1 系図
5 后妃・皇子女
6 年譜
7 宮
8 陵・霊廟
9 伝承
9.1 箸墓伝説
9.2 出雲振根
9.3 都怒我阿羅斯等
10 考証
10.1 実在性
10.2 称号
11 脚注
11.1 注釈
11.2 出典
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
略歴
名
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
御間城天皇(みまきのすめらみこと) - 『日本書紀』
御間城尊(みまきのみこと) - 『日本書紀』
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』
美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『常陸国風土記』
事績
疫病と祭祀