崇礼門
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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度33分36.00秒 東経126度58分31.40秒 / 北緯37.5600000度 東経126.9753889度 / 37.5600000; 126.9753889

崇礼門
(南大門)
再建後の崇礼門(2013年)
各種表記
ハングル:???
???
漢字:崇禮門
南大門
発音:スンネムン
ナムデムン
日本語読み:すうれいもん
なんだいもん
RR式:Sungnyemun
Namdaemun
MR式:Sungnyemun
Namdaemun
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崇礼門(すうれいもん、: ???(スンネムン))は、大韓民国ソウル特別市中区世宗大路40(南大門路4街29)にあるである。一般に南大門(なんだいもん、???(ナムデムン))の通称で知られる。

2008年2月の放火により、花崗岩製の石造の門を除いた木造楼閣の大部分が焼失した。2010年2月10日から2013年4月30日まで復元工事が行われ、翌5月4日に復元記念式典が行われた[1][2]
概要

大韓民国の大韓民国指定国宝第1号に指定されている。管理者は1968年から1995年まではソウル特別市、1995年以降はソウル特別市中区庁だったが[3]、復元工事完了に伴い2013年5月1日に韓国文化財庁に変更された[4](実際の管理団体は文化財庁宮陵遺跡本部徳寿宮管理所[5])。

城郭都市であった当時の漢城(かんじょう、??(ハンソン))には東・西・南・北に位置する「四大門」と北東・南東・北西・南西に位置する「四小門」が存在したが、最も規模が大きいのはこの崇礼門である。一般的な懸板(扁額)が横書きであるのに対し、崇礼門の懸板は縦書きであるが、これは炎の形に似ている冠岳山(朝鮮語版)からの火気を阻むため、文字を縦に書いて城門を塞ぐという風水的措置による。崇礼門から鍾路まで南大門路(朝鮮語版)が続き、漢城の主要街路(大路)の一つを形成した[6]。ソウル特別市となった現在も、世宗大路、南大門路、素月路(朝鮮語版)等の幹線道路に囲まれている。

ソウル二大市場のひとつである南大門市場は崇礼門を起点に広がっているが、その名称は崇礼門の通称である南大門に由来する。
歴史夜間にライトアップされる焼失前の崇礼門(2005年9月)

1392年に朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建て、1394年に漢城に遷都した太祖李成桂は、1395年に漢陽都城(朝鮮語版)[7]と城門の建設に着手し、1398年に完成。東・西・南・北に位置する四大門の名称は、儒教の徳目である五常)からそれぞれ、興仁之門(東)、敦義門(西)、崇礼門(南)、粛清門(智の代わりに清を使用。後に粛靖門(朝鮮語版)と改称)と名付けられたが[8]、南側の主要な門(正門)である崇礼門は、俗に南大門と呼称された[9]

世宗治世の1448年、および成宗治世の1479年に大きく改築され、冠岳山の火気を遮るようにと二階建てになった。譲寧大君が書いたとされる懸板は、火気を遮るために縦に書かれた。

その後、文禄・慶長の役丙子の乱など幾多の戦乱を経るも、長い間、都の正門としての役割を果たしてきた。

大韓帝国時代の1907年日本皇太子嘉仁親王行啓を機とする街路整備のため両側に続いていた城壁が撤去され、門だけが道路に孤立する形で残された。門の南西に1900年に開業した現在のソウル駅は、開業から1922年末までの間「南大門駅(南大門停車場)」と呼ばれ、1923年1月1日に「京城駅」に改称した[10]

日本統治時代1910年 - 1945年)の1925年から1926年にかけて、門を挟むように南に京城駅の赤レンガ駅舎(現在の「文化駅ソウル284」)、北に京城府庁舎(旧ソウル市庁舎、現在のソウル図書館(朝鮮語版))が建てられた。1933年朝鮮総督府が朝鮮の主要文化財を保護する目的で定めた「朝鮮寶物古蹟名勝天然記念物保存令」(昭和8年朝鮮総督府制令第6号)に基づき、1934年8月27日に「京城南大門」の名称で宝物第1号に指定された(指定当時の住所は京畿道京城府南大門通四丁目)[11]

1948年大韓民国建国後、朝鮮戦争ではソウルの大部分が破壊されたが、崇礼門は一部の損傷にとどまり焼失を免れた。破損した部分の大規模な解体、修復工事が1961年から1963年にかけて行われ、1962年12月20日に改めて大韓民国文化財保護法(朝鮮語版)(1962年法第961号)に基づき「ソウル南大門」の名称で国宝第1号に再指定された[12]

なお、国宝の番号は単純に指定された順序に過ぎず、その価値に対する優越の順位ではないにもかかわらず[13]、日本が勝手に決めた国宝であり、日本統治時代の烙印であるとして、韓国国内の一部には「国宝第1号」を朝鮮の文化的な「独立宣言」である訓民正音等に変えるべきであるとの意見があがり[14][15][16][17]2021年11月19日に文化財庁は文化財保護法施行令と文化財保護法施行規則を改正し、同日から「国宝ソウル崇礼門」と文化財指定番号を表記しない名称に変更された[18]

ソウルで最古の木造建築であり同国の象徴のひとつともなっていたが、2008年2月の放火によって石造の城門を除いた大部分が焼失した。
門への立ち入り観光客に開放されていた崇礼門

韓国統監府による門周辺での路面電車(京城電車)軌道敷設に伴い、1907年に一般の立ち入りが禁止となったとされているが[19][20]、一方で自由通行の様子を撮影した1922年以前に撮影された写真も残されており[21]、実際には通行は禁じられていなかった。1929年に開催された朝鮮博覧会では「京城協賛会」による「祝 朝鮮博覧會」の奉迎看板が設置され、夜間は電飾が点灯されていた[22]。同年8月に発行された『京城府管内圖』にも、崇礼門を取り囲むロータリーと共に、門を通過する道路も一等道路に指定されていた[23]

朝鮮戦争後の1961年から大規模な補修工事が行われ、工事が終了した後、2006年まで門の立ち入りは禁止されたままで、大きな車道に阻まれて近づくことも困難だった。


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