崇徳天皇
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の太宗崇徳帝については「ホンタイジ」をご覧ください。

清の太宗の治世に使われた元号については「崇徳」をご覧ください。

崇徳天皇
天子摂関御影』より「崇徳院」
藤原為信
第75代天皇
在位期間
1123年2月25日 - 1142年1月5日
保安4年1月28日 - 永治元年12月7日
即位礼1123年3月18日(保安4年2月19日
大嘗祭1123年12月7日(保安4年11月18日
元号天治
大治
天承
長承
保延
永治
時代平安時代
先代鳥羽天皇
次代近衛天皇

誕生1119年7月7日元永2年5月28日
高馬
崩御1164年9月14日長寛2年8月26日
讃岐国
陵所白峯陵
追号崇徳院(崇徳天皇)
1184年寿永3年)8月3日追号勅定
別称新院
讃岐院
元服1129年1月22日大治4年1月1日
父親鳥羽天皇
母親藤原璋子(待賢門院)
中宮藤原聖子(皇嘉門院)
子女重仁親王
覚恵
顕末
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崇徳天皇(すとくてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:崇コ天皇、1119年7月7日元永2年5月28日〉- 1164年9月14日長寛2年8月26日〉)は、日本の第75代天皇(在位: 1123年2月25日保安4年1月28日〉- 1142年1月5日永治元年12月7日〉)。は顕仁(あきひと)。

鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮藤原璋子(待賢門院)。譲位後は新院。その後、 平安時代末期の1156年保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。日本三大怨霊の一人として知られる。

小惑星(4767) Sutokuは崇徳天皇に因んで命名された[1]
略歴
幼き帝

元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。保安4年(1123年)1月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に数え5歳(満3歳7か月)で即位した。大治4年(1129年)、摂政・藤原忠通の長女の藤原聖子(皇嘉門院)が入内する。同年7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。大治5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。天皇と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日女房・兵衛佐局が天皇の第一皇子の重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという[2]保元の乱で忠通が崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。一方、この件があった後も崇徳上皇と聖子は保元の乱まで常に一緒に行動しており、円満な夫婦関係が続いたとみられている[3]

院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の躰仁親王を即位させた(近衛天皇[注釈 1]。躰仁親王は崇徳上皇の中宮・藤原聖子の養子となっており、崇徳天皇とも養子関係にあったと考えられるため、「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた[4][注釈 2]。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。崇徳上皇は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになった。
実権無き上皇

崇徳院は在位中から頻繁に歌会を催していたが、太上天皇になってからは和歌の世界に没頭し、『久安百首』を作成し『詞花和歌集』を撰集した。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開した。法皇も崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王を美福門院の養子に迎えた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁親王への皇位継承も可能となった。また、近衛天皇の朝覲行幸に際して、法皇は美福門院とともに上皇を臨席させ[5]、上皇の后である聖子を母親として天皇と同居させるなど崇徳院を依然として天皇の父母もしくはそれに準じる存在と位置づけており[注釈 3]、近衛天皇が健在だったこの時期においては、崇徳院は鳥羽院政を支える存在とみなされ、両者の対立はまだ深刻な状況にはなかったとする説もある[3][6]

久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれた。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。鳥羽法皇や美福門院は、近衛天皇の崩御を崇徳上皇に近い藤原頼長による呪詛が原因と信じていたといい[7]、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父の藤原忠実と弟の頼長との対立で苦境に陥り、兵衛佐局・重仁親王の件で崇徳上皇を良く思わない藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される。また、守仁親王が直ちに即位した場合、その成人前に鳥羽法皇が崩御した場合には唯一の院になる崇徳上皇が治天の君となれる可能性があったが、父親でかつ成人している雅仁親王が即位したことでその可能性も否定された[3]。これにより崇徳院政の望みは不可能となった。
保元の乱詳細は「保元の乱」を参照

保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御した。崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の葉室惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したという。崇徳院は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。法皇が崩御して程なく事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳院・藤原頼長を抑圧していた美福門院・藤原忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられる。

7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、子の重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。


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