崇徳中学校・高等学校
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崇徳中学校・高等学校

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国公私立の別私立学校
設置者学校法人崇徳学園
校訓四綱領
健康・誠実・精進・感謝
設立年月日1951年4月28日
共学・別学男女共学
中高一貫教育併設型
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
学科内専門コース特別進学コース
進学コース
学期3学期制
学校コードC134310000088 (中学校)
D134310000022 (高等学校)
高校コード34502E
中学校コード340243[1]
所在地733-8511
広島県広島市西区楠木町四丁目15番13号
外部リンク学校法人崇徳学園 崇徳中学・高等学校
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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崇徳中学校・高等学校(そうとくちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、広島市西区楠木町四丁目にある私立中学校高等学校
概要

校名の「崇徳」の由来は、『仏説無量寿経』(ぶっせつむりょうじゅきょう)の中にある「崇徳興仁 務修礼譲」(徳を尊び、思いやりの心を培い、修養に励んで、礼義を重んじる)という箇所から、明治時代の西本願寺21世法主の明如(大谷光尊)が選んだものを当学園に授けたものである。

西本願寺系の龍谷総合学園加盟校であり、龍谷大学への特別推薦制度がある。多くの生徒が進学している。

生徒が学ぶコースは、2000年からスタートした「中高一貫6年制」。他中学から進学してきた生徒には「特別進学コース」と「進学コース」と「クラブ推薦コース」がある。「進学コース」は高校2年へ進級の際、主に「五型(国公立)理系・文系」「三型(私立)理系・文系」「仏教コース」に別けられる。「特別進学コース」は長期休暇中に開講される補習を受けることが義務付けられており、7限目の補講が行われる。「進学コース」から「特別進学コース」へは高校1年から2年へ進級する際、模試の結果や成績などを考慮され変更することが出来る(ただし、1年次の全統記述模試を全て受験する必要あり)。

校内には中学校と高校が併設しており施設も共同で使う。崇徳学園の図書館の蔵書数は約4万冊あり、以前は広島県の学校図書館の中では最大規模であった。今でも月に100冊以上の新刊図書をそろえ、生徒の幅広いニーズにこたえている。

広島県では4番目に古い高校として歴史と伝統を誇る[2]

制服は男子校の伝統の一つでもある金ボタン5個の黒詰襟学生服(標準型学生服)。食堂も設置。2020年度から男女共学になり、制服もブレザーに改定された。
沿革
年表

1875年 - 「学仏場」として広島市胡町に寺院子弟の専門学校として開学。

1877年 - 「進徳教校」に改組。

1882年 - 「進徳教校」が広島市西区楠木町の現在地に移転。

1883年 - 真宗崇徳教社が「進徳教校」の経営に関わる。

1900年 - 校名を「仏教中学」に改める。

1901年 - 校名を「広島仏教中学」に改める。修業年限を5年制にする。

1902年 - 西本願寺が学校の直接経営権を握り、校名を「第四仏教中学」[3]に改める。

1912年 - 西本願寺の意向により、第四仏教中学閉校[4]

1913年 - 旧制崇徳中学校として再スタート。この年より門戸を一般に開放。経営は真宗崇徳教社。初代校長に観山覚道就任。

1928年 - 旧制中学校歌制定(1948年の新制高校発足後に歌詞を一部変更の上再制定)[5]

1945年 - 原爆により校舎全壊。市内猫屋町の光道小学校を仮校舎として9月、授業再開。

1948年 - 学制改革により、新制「崇徳高等学校」発足。中学校を併設。

1951年 - 真宗崇徳教社が経営権を学校法人崇徳学園に譲渡。商業科を高校に併設。

1964年 - 創立88年記念式典開催。戦前に発行されていた学園誌が1回限りの復刊。体育館竣工。

1967年 - 崇徳中学校を広島市西区大芝に移し、全寮制を取る。「興仁寮」竣工。

1972年 - 戦前に発刊されていた学園誌が正式復刊。

1973年 - 経営のあり方を巡り理事会と教職員が対立。教職員は組合を作りストライキを起こした。理事は全員辞任。

1976年 - 第48回選抜高等学校野球大会で硬式野球部初優勝。

1983年 - 商業科募集停止。

1985年 - 特別進学コース(Aコース)設置。7時間制。

1986年 - 商業科35年の歴史に幕。これにより高校は普通科A・Bコースと仏教コースのみとなる。

1991年 - 台風19号被害で保険金を簿外処理していた事が発覚。社会問題に発展し理事長が辞任。事務員が懲戒免職。

1993年 - 中学校の寮「興仁寮」閉鎖。

1995年 - 龍谷大学と教育連携校締結。

2000年 - 中高一貫教育がスタートし、中学校が高校敷地内に戻る。

2001年 - 新校舎落成。

2006年 - 韓国釜山広域市にある大淵高等学校と交流を始める[6]

2019年 - 慧光館・清光館・興仁館が竣工。

2020年 - 特別進学コース共学化

2021年 - 全コース共学化

崇徳教社との関係

1951年まで真宗
崇徳教社が経営に関わっている。元々、進徳教校は崇徳教社の「興学・布教・慈善」という三大目的の一つ「興学」の実施機関という性格を有していたとされる。進徳教校は明治34年(1901年)に広島仏教中学と改名され、経営を本願寺に移した。翌明治35年には第四仏教中学と改称し、明治45年(1912年)に本願寺は第四仏教中学を兵庫県の六甲山に移した。その後、崇徳教社の手により普通中学が開校され旧制崇徳中学校として存続していくことになる[7]。詳しくは、崇徳教社を参照。

崇徳銀行

1912年から1925年にかけて存在した銀行である。崇徳教社は当初財政難であったが、崇徳銀行を設立し、その収益を学校運営に回していたとされる。

学校行事

中学校では、学年毎に修学旅行がある。スポーツ・クラブ活動を積極的に奨励している。文化祭においては、話し方大会・イングリッシュスピーキングコンテスト・劇発表・音楽発表・弁論大会・クラスでの研究発表・クラブの模擬店やカラオケ大会などが行われる。

高校では生徒数が多いため「体育祭」は存在しない。その代わりとして定期考査終了後「クラスマッチ」という形でソフトボールバレーボールバスケットボールバドミントンオセロなどが行われている。文化祭は「崇徳祭」と呼ばれ毎年11月に2日間にわけて行われている。学年ごとに出し物に制限がかけられており、学年が上がるごとに緩くなっていく。最高学年である3年生になると各クラス模擬店を出店し軽食等を提供する。

中学・高校全体では年に一度演劇鑑賞が行われている。また、本校では3年に1度劇団四季の劇を貸し切りで鑑賞している(保護者も鑑賞可能)。
宗教行事

本校では4月の花祭り(灌仏会)、5月21日の宗祖降誕会並に開校記念式、11月28日報恩講並に学園関係者追悼法要という三大仏教行事が行われる。加えて、1951年に学園内の原爆供養塔建立を機縁として、毎年8月6日には原爆忌法要が行われ、全校生徒の登校日として制定化し、全学挙げての追悼式が行われている。


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