三笠宮崇仁親王
三笠宮家
2012年(平成24年)1月2日新年一般参賀にて
続柄大正天皇第4皇男子[1]
宮号三笠宮(みかさのみや)
全名崇仁(たかひと)
称号澄宮(すみのみや)
身位親王
敬称殿下
お印若杉(わかすぎ)
出生1915年12月2日
日本・東京府東京市麹町区 宮城内産殿
(現:東京都千代田区)
死去 (2016-10-27) 2016年10月27日(100歳没)
日本・東京都中央区 聖路加国際病院
埋葬2016年11月4日
日本・東京都文京区 豊島岡墓地
配偶者高木百合子
子女近衛ィ子(ィ子内親王)
ェ仁親王
桂宮宜仁親王
千容子(容子内親王)
高円宮憲仁親王
父親大正天皇
母親貞明皇后
栄典大勲位
役職一覧参照
陸軍少佐
貴族院議員
(1935年〈昭和10年〉12月1日 - 1946年〈昭和21年〉5月23日)
東京芸術大学名誉客員教授
東京女子大学講師
中近東文化センター名誉総裁
日本赤十字社名誉副総裁
他多数
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束帯着用の崇仁親王
三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう、1915年〈大正4年〉12月2日 - 2016年〈平成28年〉10月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人、歴史学者(古代オリエント史)。三笠宮家初代当主。御称号は澄宮(すみのみや)[2]、お印は若杉(わかすぎ)。身位は親王。敬称は殿下[3]。勲等は大勲位。最終階級は陸軍少佐。
大正天皇と貞明皇后の第4皇男子。昭和天皇は兄(長兄)、第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁は大甥にあたる。 1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四男子として誕生。 3人の兄(昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王)は明治生まれ即ち父である大正天皇がまだ皇太子であった時にその男子として生まれ、早くから「皇孫御殿」に引き取られて養育された。一方で、崇仁親王はすぐ上の兄である宣仁親王から10歳年下、長兄・皇太子裕仁親王から14歳年下であり、「末子を手元で育てたい」という両親の意向が貫かれ、御所で養育された。1921年(大正10年)、大正天皇の嫡男である4人兄弟。左から昭和天皇(当時は皇太子)、崇仁親王、宣仁親王(後の高松宮)、雍仁親王(後の秩父宮) 学習院初等科・中等科を経て、1936年(昭和11年)に陸軍士官学校(第48期、兵科:騎兵)を卒業。陸士在校中は、辻政信が自ら願い出て教育を担当した。辻とはのちに同じ支那派遣軍で勤務している。 在校中の1935年(昭和10年)の成年式に伴い、「三笠宮」(みかさのみや)の宮号を兄帝より賜り、同時に大勲位に叙せられる。陸軍騎兵学校を経て、士官候補生時代に指定された原隊たる騎兵第15連隊で小隊長、続いて中隊長を務めのちに陸軍大学校(第55期)を卒業する。 1935年(昭和10年)に成人したことに伴い、帝国議会上院の貴族院議員となる。下記の通り、活動実績はあまりないが、1946年(昭和21年)までの11年間に及んで議員(貴族院議員)の職を務めた。旧憲法下では、皇太子と皇太孫以外の皇族議員(男子)は満20歳になると同時に自動的に貴族院議員となることや、成年男性の皇族は原則として大日本帝国陸軍または大日本帝国海軍軍人であることから、皇族議員が議事に加わることは稀であったため、活動実績が皆無であることは皇族議員として一般的である。 1941年(昭和16年)10月22日、子爵高木正得の次女高木百合子と結婚。近衞ィ子(ィ子内親王)、ェ仁親王、桂宮宜仁親王、千容子(容子内親王)、高円宮憲仁親王の三男二女の5人の子女をもうけた。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後、陸軍大尉時代の1943年(昭和18年)1月から翌1944年(昭和19年)1月まで、コードネーム「若杉」(姓は印にちなんで作られた)として、南京市の支那派遣軍総司令部に勤務。
生涯
父の大正天皇
母の貞明皇后
軍人として左から:高松宮、三笠宮、朝香宮、(朝香宮家の)孚彦王、北白川宮、李王垠、李鍵公、李?公(1938年)