島薗 順次郎
生誕1877年3月12日
日本 和歌山県、現和歌山市
死没 (1937-04-27) 1937年4月27日(60歳没)
日本
居住 日本
ドイツ帝国
国籍 日本
研究分野医学
研究機関岡山医学専門学校
京都帝国大学
東京帝国大学
ベルリン大学
出身校東京帝国大学
主な業績脚気がビタミンB1欠乏症であることを発見・証明
主な受賞歴帝国学士院賞(1926年)
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島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう、1877年(明治10年)3月12日 - 1937年(昭和12年)4月27日)は、日本の医師、内科学者、医学博士。和歌山県、現在の和歌山市出身。脚気がビタミン欠乏症であることを発見した[1]。 1877年3月12日、和歌山県、現在の和歌山市(当時は市制施行以前)に須藤暢の次男として生まれた。父を幼少期に亡くし、母と13歳上の兄の丑彦に育てられた[2]。和歌山中学校在学中に才覚を見込まれ、医師の島薗家の娘婿として養子となる。卒業後、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に進学。大学在学中は、三浦謹之助教授、高橋順太郎教授の指導を受けた。1904年に卒業し、ドイツに留学。 帰国後は、岡山医学専門学校教授、京都帝国大学教授を務め、1924年には三浦の退官により東京帝国大学医学部医学科第一内科学講座教授に抜擢される。1926年5月16日、ビタミンB1欠乏症においての実験的研究により帝国学士院賞を受賞し、1929年には日本初の交換教授としてベルリン大学で1年間講義を行った。 1933年に東京帝国大学医学部附属医院長となり、翌1934年には鈴木梅太郎が発見していたビタミンB1を用いた研究の結果、脚気はビタミンB1の欠乏によるものと結論付けた学説を発表した。 後任の第一内科学講座教授は柿沼昊作 妻の津弥(1884年生)は和歌山藩医・島薗恒斎の二女[3]。順次郎の3人の息子は全員学者である。
生涯
略歴
1905年:東京帝国大学医科大学卒業
1911年:ドイツに留学。
1913年:帰国して岡山医学専門学校(岡山大学医学部の前身)教授に就任。
1916年:京都帝国大学医科大学教授
1924年:東京帝国大学医学部教授
1926年:帝国学士院賞を受賞。
1929年:ベルリン大学で日本初の交換教授として講義。
1933年:東京帝国大学医学部附属医院長に就任。
1937年:定年退官して東京帝国大学名誉教授となったが、間もなく死去。墓所は谷中霊園。
業績
脚気がビタミンB1欠乏症であることを発見・証明した。
家族
長男・島薗順雄
次男・島薗平雄