島秀雄
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島 秀雄(しま ひでお、1901年明治34年)5月20日 - 1998年平成10年)3月18日[1])は、昭和初期 - 中期の鉄道技術者。元日本国有鉄道(国鉄)技師長[1]1955年 - 1963年)。宇宙開発事業団(NASDA)初代理事長(1969年 - 1977年)。大阪府出身。島安次郎の子。
概略

「デゴイチ」の愛称で知られる貨物用蒸気機関車D51形の設計に関与。また新幹線計画では、国鉄総裁十河信二や新幹線総局長の大石重成らと共にその実現に大きく貢献し、「新幹線の生みの親」と称される[2]。国鉄退職後は、宇宙開発事業団ロケット開発にも携わった。

1969年(昭和44年)に英国機械学会のジェームズ・ワット賞日本人として初めて受賞。また1994年(平成6年)には文化勲章を鉄道関係者としては初めて受章している。

鉄道技術者で弾丸列車計画を推進した島安次郎は父。次男の島隆は新幹線の初代車両「0系」の設計に参画したほか、新幹線輸出第一弾となる台湾高速鉄道の顧問も務めており、島一家は、父から子への3代にわたり高速鉄道技術開発に携わっている[3]。なお、末弟に国産旅客機YS-11の開発に携わった島文雄がいる
経歴

父・安次郎の赴任先で母親の実家がある大阪市内で出生[4](父の出身は和歌山県和歌山市)。

1925年大正14年)に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、鉄道省に入省[2][4]大宮工場大井工場で現場で蒸気機関車の釜炊きなどの実習を受けた後、本省工作局車両課に配属され、蒸気機関車開発に携わった[4][5]。設計・開発キャリアの初期には父・安次郎の直系の弟子格に当たる朝倉希一に師事し、国産初の三気筒蒸気機関車であるC53形の設計に参加したのを皮切りに、C54形C55形C56形C57形C10形C11形C12形C58形D51形など、全盛期における数々の蒸気機関車を手がけ、戦後にわたって活躍した名車も生み出した[4][5]

一方で、1930年代にはいち早く気動車の開発を推進し、普及に努めている(日本の気動車史も参照)。また、内燃機関技術や省営自動車(国鉄バス)への国産車採用の見地から、1931年(昭和6年)に商工省(当時)の主導で開始された国内自動車メーカー共同による標準形式自動車の開発にも鉄道省から参画、1933年(昭和8年)に後のいすゞ車の原型となるTX型を完成させている[6]

1936年(昭和11年)1937年(昭和12年)には在外研究員として海外派遣され、同僚の下山定則とともにヨーロッパ・南アフリカ・南米の鉄道事情を調査した。中でも、電車列車を用いた高頻度・高速度運転による高密度の輸送を実現しているオランダの鉄道に強い印象を受け、のちの動力分散方式による電車の着想を得たとされる[4][7]

父・安次郎が旗振り役となった、「戦前版新幹線」とも言うべき「弾丸列車計画(新規広軌幹線敷設計画)」にも、1940(昭和15)年に本省工作局車両課と大臣官房幹線調査課を兼務して参加し、電気動力を本命として計画を立案している。もっとも、この計画は太平洋戦争激化によって頓挫し、島は翌1941年(昭和16年)に、浜松工場長に転出。さらにその翌年に本省に復帰して工作局車両第2課長(翌年の改組で資材局動力車課長)となった[5][4]。そこで島は、B20形63系電車など、戦時設計車両を手掛けることになる。島は、幼少であった三男や将来を有望視されていた弟・邦雄を戦争中に相次いで喪い[8]、父・安次郎も終戦の翌年に他界した。

島は1946(昭和21)年に電車用動力台車設計研究会(のち高速台車振動研究会と改称)を発足させ、基礎研究を開始した。中でも、海軍工廠出身の松平精三木忠直らによってもたらされた航空機の振動理論や機体設計技術などの新たな知見が、鉄道技術と融合したことで大きな成果をもたらし、実用的な電車列車の開発に貢献した[4]1947年(昭和22年)以降長距離用電車(80系電車)の計画を立案、電車自体に懐疑的だった当時のGHQによる妨害を排しながら、1950年(昭和25年)に至り、16両の長大編成を組んだ80系電車による電車列車「湘南電車」の運行を実現している[4]。これは国鉄の動力分散化普及における重要なターニングポイントとなった。島はこの間に工作局長(1948年)・理事(1949年の日本国有鉄道発足時。工作局長と兼務)に栄進して、車両系統のトップに上り詰めた[4]

しかし、戦後の混乱した情勢の中では鉄道事故が続発、1951年(昭和26年)には日本の鉄道史に残る大惨事となった桜木町事故が発生し、自らが開発に携わった戦時設計の63系電車の火災に対する脆弱性が露呈する。事件後、島は63系電車の安全面の改良を徹底的に行ったものの、労使問題のこじれ、事故や不祥事の連発、そして桜木町事故の処理における上層部の醜態など、組織の体質に嫌気をさしていた島は、事故の責任を取るかたちで車両局長の職を辞し、国鉄を去った[4]

下野してからは、一時鉄道車両用台車の最大手メーカーである新扶桑金属工業の顧問(のち後身の住友金属工業において取締役)を務めたほか[4]1953年(昭和28年)に発足した鉄道趣味者団体「鉄道友の会」の初代会長に就任し、鉄道趣味の分野でも活躍した[9]

1955年(昭和30年)、紫雲丸事故により引責辞任した長崎惣之助の後任として、十河信二国鉄総裁に起用された。


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